女人高野(にょにんこうや)と呼ばれる室生寺にやって来ました。
高野山が女人禁制なのに対して女性の参詣が許されていたのでこのように呼ばれています。
続日本紀によると、桓武天皇の病気平癒のため、室生の地において祈願したところ、竜神の力で見事に回復したので、興福寺の僧の賢憬(けんけい)が、朝廷の命で、ここに寺院を造ることになったそうです。
この為、青龍(せいりゅう)のお寺とも言われます。
のどかな風景です。
室生寺の「室」(むろ)とは、三室(みむろ)という神様の坐る山という意味だそうです。
三輪山は、古来から三諸山(みむろやま)と呼ばれ、この室生山と同じ神様が祀られているようです。
大和の日の出の山として古くから信仰されている三輪山の麓に、桧原神社(ひはらじんじゃ)という神社があり、初めて天照大神を祀った所とされています。
この社の真東に室生寺があり、さらにその真東に伊勢内宮の元の社地とされる伊勢の斎宮跡があるそうです。
室生寺の古い記録には、室生山には大日如来の宝珠があって、これが垂迹して天照大神になったという伝承もあるそうです。
このお寺は、石楠花(しゃくなげ)が有名で、2週間前ぐらいは満開だったようですが、例年に比べて早咲きだったそうで、残念ながら、今回は、もう花が散ってしまった後でした。
降り注ぐ木漏れ日がまるで印象派の絵画のようです。
花は咲いていませんが階段の両脇にあるのが石楠花(しゃくなげ)です。
この室生寺の近くに龍穴神社(りゅうけつじんじゃ)という神社があり、そこに吉祥龍穴(きっしょうりゅうけつ)という龍が隠れた穴があるそうです。
吉祥とは吉祥天の事で、龍とは天岩戸(あまのいわと)に隠れた推古天皇(すいこてんのう)の事なのかもしれません。
天岩戸から出て来たのは弁財天とされた持統天皇(じとうてんのう)で、推古天皇と同族の蘇我倉山田石川麻呂の孫になります。
入れ替わった推古天皇は天岩戸を開いた天細女命(あめのうずめのみこと)となり、猿田彦大神の妻となって道祖神となり、日本の伝統芸能を守る役目を担います。
聖徳太子より任命された秦河勝が秦氏を率いて猿楽の祖となり、能などの伝統芸能が生み出されていくので、天細女命は秦氏の親玉で、それを管理したのが藤原鎌足(猿田彦大神)という事になります。
室生寺(むろうじ)の「室」(むろ)は氷や雪を蓄える「氷室」(ひむろ)を意味するのかもしれません。
孝徳天皇(こうとくてんのう)の時代、熊野(くまの)は紀伊国(きいのくに)と別の国であったのを、紀伊国の牟婁郡(むろぐん)に編入したとされます。
熊野は熊野権現(くまのごんげん)=素戔嗚尊(すさのおのみこと)の国を表し、「熊野」と「牟婁」(むろ)は同じだという事です。
神が隠れ籠れる所を「神奈備(かんなび)の御室(みむろ)」と呼びます。
天照大神が隠れた天岩戸であり、「冬」を意味します。
「龍穴」(りゅうけつ)は「御室」(みむろ)を表しているのかもしれません。
室生寺は龍穴神社の神宮寺であった時代もあるそうで、後で、寄ってみたいと思います。
通常は8本腕が普通なのですが、10本腕の軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)と言われる石仏です。
吉祥天、観音菩薩、宝生如来、善女龍王、軍荼利明王はみんな同じ仏様で、明王は密教の時の姿だとされています。
軍荼利明王は、女性の仏様で、「クンダリーニ」というチャクラの女神で、「燃える穴」という意味があり、火を入れる容器である「火倉」(ほくら)の意味を持ちます。
クンダリーニヨガなど、このチャクラを誘発して神秘体験をしようとすると身体が燃えるように熱くなり、間違えると体調を崩して死に至る危険性もある生の根源的なエネルギー源です。
臨死体験や、出産時に同じような体験をする人もいるそうです。
保久良神社(ほくらじんじゃ)など、素戔嗚尊(天武天皇)の意味を持ちますが、日本神話では火の小屋で三人の子供を産んだ木花咲耶姫(持統天皇)がそれを引き継ぎ「三倉」(さくら)となり、「桜」が生命の誕生の「春」を表していたのだと思います。
春の女神「佐保姫」(さほひめ)が持統天皇のシンボルだった時代もありますが、佐保山(さほやま)が均(なら)されて平城山(ならやま)となり、古事記では秋の龍田川で水をくくる錦(紅葉)の蛇になった事が書かれています。
在原業平の「ちはやふる」の水をくくる「紅葉」が平安時代初期の安芸(秋)の宮島で持統天皇(弁財天)を表していました。
平安時代後期には、さらに季節が進んで、冬の女神「菊理姫」(きくりひめ)として持統天皇が「雪」に姿を変える形となります。
この室生寺のある土地は奈良県の中では豪雪地帯でもあり、冬の室生寺とも呼ばれます。
太陽が隠れる場所だと考えると納得がいきます。
天照大神の檜原神社(ひはらじんじゃ)から伊勢神宮までの中間地点に位置し、倭姫が天照大神をお祀りする場所を探して西から東に八咫鏡を運んだルートにも当たります。
「火」である太陽が「岩屋」に隠れた「火倉」(ほくら)であり、「倉」(くら)は「太陽の器」「太陽の聖杯」を意味します。
そこに、女性も成仏出来ると説く法華経の行である六波羅蜜の六を突き刺したのが「六刺し」(むさし)で、埼玉県の武蔵国に高句麗の遺民や、蘇我氏の残党、奈良時代の天武天皇と持統天皇の子孫達を住まわせて武蔵七党が生まれ、源氏はその力を借りて平家を倒す事に成功します。
鎌倉幕府の鎌倉は浄妙寺の鎌足稲荷社のある場所に藤原鎌足が鎌を埋めた事から付いた地名だとも言われます。
この地は壬申の乱で天武天皇によって藤原鎌足の子孫である中臣氏が流罪にあった土地で、鎌は稲を収穫する秋の道具で、藤原北家によってその子孫達が恵みを受けて「三倉」(さくら)が「鎌倉」(かまくら)に変わった事を意味するようです。
「奈良」(なら)という言葉も、元々はイエス・キリストの血である葡萄酒を入れる容器の「楢」(なら)を意味し、そこから天照大神(持統天皇)と素戔嗚尊(天武天皇)の子供である宗像三女神の宗像大社の神紋が「楢の葉」(ならのは)になります。
葉は子供という意味です。
私は天照大神は推古天皇の事で、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に出て来る女王卑弥呼は推古天皇の事だと思っています。
弥生時代と古墳時代の中間に存在した女帝で、我々が知っている聖徳太子の飛鳥時代(古墳時代後期)の人ではなかったのかもしれません。
マグダラのマリア(観音菩薩)の聖杯伝説の「聖杯」が、仏教の教えを学ぶ僧の器である「室」(むろ)に置き換わります。
法華経(ほけきょう)も「器」(うつわ)で中身は菩薩(ぼさつ)、特に弥勒菩薩(みろくぼさつ)を筆頭に全ての衆生が入る「器」です。
「室」(むろ)はおそらく「無漏」(むろ)で、煩悩(ぼんのう)が漏れない悟りの境地の菩提(ぼだい)を表しているのだと思います。
この反対が迷子になってウロウロする「有漏」(うろ)で、この世を意味します。
「うろじより むろじへ帰る 一休み」という一休さんの歌が思い出されます。
無の世界から生まれて来て、無の世界へと消えていく、この世は一休みの世界だという意味です。
一休みの世界であれば楽しまないと損です。
室町幕府の「室町」(むろまち)は煩悩の無い悟りの人々が暮らす庶民の町である「京都」が「聖杯」だという意味なのかもしれません。
埼玉県に氷室神社(ひむろじんじゃ)が多く存在していて何故なのか謎だった時もあったのですが、この室生寺に来て謎が解けました。
奈良時代に冬に出来た池の氷を「氷室」(ひむろ)と呼ばれる山の中の寒冷地に穴を掘って地中に保存しておき、夏に取り出して削られ、かき氷が作られ天皇家に献上されていました。
ちゃんと小屋を建てて木材などに囲われた古代の冷凍庫です。
削られた、かき氷にはナツヅタの茎の樹液を煮詰めた甘葛煎というシロップまで使用され、夏のお菓子として楽しまれたようです。
つまり、「氷室」は天武天皇の子孫達が始めた文化です。
稲荷を意味する垂仁天皇と共に田道間守が眠る古墳のある「郡山」(こおりやま)も、元は、かき氷の「氷山」(こおりやま)だったのだと推測出来ます。
現在、残っている「氷室」も天理と郡山の隣接する地域です。
平安時代の初期には蘇我倉山田石川麻呂(神八井耳命)の子孫の茨田氏(まむたし)は稲荷の瓢箪によって救われ、天武天皇を意味する武蔵国の強頸(こわくび)が絶間の人柱となって淀川の洪水を塞き止めたとされます。
淀川が表しているものは蘇我倉山田石川麻呂から続くイエス・キリストの血の継承は仁徳天皇(蘇我倉山田石川麻呂)から続く天皇家の血の継承で、天武天皇の人柱のお陰で流れが保たれているという事のようです。
埼玉県に氷室神社が多いのは氷室を発明した天武天皇の子孫が開拓した土地だからです。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)の「高僧和讃」(こうそうわさん)に、「罪障功徳の体となる 氷と水のごとくにて 氷多きに水多し 障り多きに徳多し」と詠まれていて、煩悩の多い人ほど悟りを得た時の功徳は多いという意味で、大きい氷ほど、溶けた時の水の量は多くて恵みを齎すと説明されたりします。
親鸞聖人は「阿弥陀如来」を「水」、衆生の「煩悩」を「氷」で表していて、「氷」も「水」の中に浮かべれば、やがて溶けて「水」になり、阿弥陀様の功徳を授かれると説明されていたようです。
夏に、冷たいかき氷を食べたいという人間の無い物を求める欲求は煩悩そのものという事のようです。
持統天皇が「火」の天照大神から「水」の市杵島姫(いちきしまひめ)へと、「親」から「子」へと変えられた経緯も、阿弥陀如来を「水」に例えた事に影響を与えたものだと私は思います。
入口のところに少しだけ石楠花(しゃくなげ)がありました。
それでは、龍穴神社に向かいます。
着きました。
大きな杉の木に囲まれています。
この神社の杉は、どれも、樹齢600年は超える巨大な杉だそうです。
鳥居も小さく見えます。
拝殿です。
御祭神は、大物主命ではなく、高龗神(たかおかみのかみ)だそうです。
龗神(おかみのかみ)は闇龗神(くらおかみのかみ)と高龗神(たかおかみのかみ)の二神が存在します。
前者は卑弥呼(ひみこ)のことであり、推古天皇(すいこてんのう)のことです。
後者はその後継者となった壱與(いよ)と台与(とよ)であり、持統天皇(じとうてんのう)と皇極天皇(こうぎょくてんのう)になります。
現在は高龗神は皇極天皇の意味で、別に市杵島姫(持統天皇)が祀られる形が多くなっています。
善女龍王社(ぜんにょりゅうおうしゃ)と書かれています。
弘法大師が雨乞いを行った際に現れた龍王で、宝珠を持ち、龍そのものではなく、龍を統べる女神とされます。
丹生明神(にうみょうじん)という別名もあります。
岩戸に隠れた元祖、天照大神の推古天皇を意味します。
それでは、これから吉祥龍穴に向かおうと思います。
吉祥天(きっしょうてん)は、宝珠を持つ仏教の女神で、毘沙門天の妃とされる神様です。
推古天皇を象徴する仏様です。
この龍穴には、須勢理毘売命(すせりびめのみこと)が籠もった旧跡とされ、延暦9年(790)に須勢理毘売命の社は現奈良県榛原町赤埴(あかばね)鎮座の白岩神社(しらいわじんじゃ)に遷座したと言われています。
須勢理毘売命は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の娘で、大国主命(おおくにぬしのみこと)と結婚した女神です。
大国主命は須勢理毘売命と結婚する事で素戔嗚尊の後継者となります。
妻になったり子になったり、ややこしいですが、須勢理毘売命は火の勢いが強かった時代の持統天皇のもう一つの名前でもあります。
或いは持統天皇の子孫である孝謙天皇(称徳天皇)を表しているのかもしれません。
ただ、大国主命は敏達天皇(びだつてんのう)を象徴しているので、この場合は須勢理毘売命は推古天皇で、素戔嗚尊は父ではなく叔父の蘇我馬子になりそうです。
天照大神が推古天皇と持統天皇の二つの側面があるので、どちらをおくかで素戔嗚尊が変わってしまいますが、古事記を作成した人、完成させた人の意図で考えると藤原氏の意向が大きく関わっているのは事実だと思います。
ただ、時代と共に何度か改変され、藤原氏の中でも式家と北家では意向が変わるので、どの時代の神話なのかをよく考えないと混乱が生じて間違った答えを出してしまいそうです。
平安時代初期には吉祥天が隠れた方、弁財天が出て来た方だったのですが、平安時代後期には荼枳尼天がその役割を受け継いだので吉祥天と共に弁財天も隠れた方に入れられたのかもしれません。
白岩神社は摩尼山を御神体としているようで、摩尼(まに)は弥勒菩薩(みろくぼさつ)という太陽神(火)を最高神とするマニ教を表しているのだと思います。
蘇我氏が日本に入れようとしていた仏教は、おそらくマニ教の仏教でキリスト教のメシア信仰とも結び付いていました。
東方正教会から追放されたネストリウス派の景教徒(けいきょうと)が中国に辿り着いた秦氏で、ユダヤ教のダン氏族の縄文時代の物部氏の日本に蘇我氏と秦氏がシルクロードを通じて渡来したのが弥生時代で、神道の物部氏とマニ教の蘇我氏が争って、マニ教は拒絶されます。
素戔嗚尊はそんな蘇我氏を代表する神様なので、その娘である須勢理毘売命を象徴する山として摩尼(まに)と名前を付けたのかもしれません。
聖徳太子が秦河勝に弥勒菩薩像を譲り、それを祀るために建てられたのが京都の広隆寺(こうりゅうじ)で、マニ教は藤原鎌足の子孫の管理下に置かれたようです。
シルクロードを支配していた蘇我氏(ソグド人)の王の蘇我入鹿が殺されて、マニ教は衰退しますが、中東地域では、それに影響を受けたイスラム教が誕生して、マニ教の広がっていた地域はイスラム教が取って代わっていく形となり、世界宗教へと発展していきます。
もし、蘇我入鹿が生きていればマニ教とイスラム教が拮抗して世界に存在していたかもしれません。
コーランの4章157節にイエス・キリスト(イーサー)に言及している箇所があるのですが、十字架にかかったのは偽物でイエス・キリストは生きているというような趣旨の内容だと言われます。
コーランはアラビア語で書かれていて、アラビア語は複数の意味を持つ言語なので翻訳しても他の言語と同じ意味になるとは限らないようですが、私はその十字架にかかった偽物がトマスで、迫害から逃れる為にローマから最も離れたインドに布教に来たのがトマスを装った本物のイエス・キリストだったのだとずっと思っていたので、コーランのこの箇所を見付けた時には自分の推理を後押しされているような衝撃を受けました。
ただ、コーランにはその偽物が誰なのかの記載はありませんが、日本には青森県にイエス・キリストの墓があり、昭和初期に天津教の竹内巨麿(たけうちきよまろ)という人が竹内文書に、ゴルゴダの丘で磔になったのはキリストの弟のイスキリで、兄は日本に渡来して、ここで亡くなり葬られたと記載されていると主張していたようです。
竹内文書は現在は偽書として学術的根拠はないとされていますが、私は天皇家がその血族だと思っています。
トマスはイエス・キリストと双子の兄弟だったので、ローマ人にはユダヤ人の顔の区別がつかなかったのだと思います。
ユダがローマ人にイエス・キリストが誰なのかを教える為に行ったとされる裏切りの死の接吻は、ローマ人を騙す目的でトマスに接吻したのだと思います。
つまり、ユダは金に目がくらんで裏切ったスパイなのではなく、その立場を利用するダブルスパイとなってイエス・キリストを救ったのだと思います。
おそらく、弟子の中でも限られたごく少数の人にしか真実は知らされていなかったのだと思われますが、私が想像するに、真実を知っていたのは、トマス、マグダラのマリア、パウロ、ユダの四人です。
ユダは裏切り者の汚名を被ってイエス・キリストを助けた忠臣で、指揮を取ったのがパウロです。
イエス・キリストは十字架にかけられた三日後に復活して弟子の前に現れて、その時にトマスだけがいなかったのは身代わりとなって亡くなっていたからで、イエス・キリストは、その後にトマスとしてインドに布教に旅立ったのだと思います。
だから、死んだと聞かされていたイエス・キリストを目の当たりにした弟子達は奇跡を信じて、それまで臆病で怖がりだった性格が一変して死を恐れない使徒へと変わり、世界中にキリスト教を布教し始めたのだと思います。
私は復活したイエス・キリストを見たのだと!!
現在のディヤルバクルのあるトルコは、ローマ時代はキリスト教のアルメニアの首都アミダと呼ばれ、そこからインドに布教に来たトマスが阿弥陀如来の正体で、無量光と無量寿の二つの名前がある理由は亡くなった兄弟へのリスペクトとしてイエス・キリスト(死)とトマス(復活)を表しているからだと思います。
つまり、薬師如来(イエス・キリスト)と阿弥陀如来(トマス)は同じ志を持つ兄弟でどちらが上でも下でもない表裏一体の存在だと示したかったのだと思います。
薬王菩薩は十字架にかかる前のイエス・キリストを表しているのだと思います。
阿弥陀如来が法華経を生み、大乗仏教はキリスト教なしでは語れないという事です。
イエス・キリストの血脈はマグダラのマリアを通じて秦氏が守っていたのではないかと思います。
慈悲の観音菩薩、智恵の勢至菩薩(せいしぼさつ)の兄弟の母親が阿弥陀如来だとする早離(そうり)、即離(そくり)の物語を元に、浄土宗では阿弥陀三尊という形式で阿弥陀如来が祀られるようになります。
トマスにマグダラのマリアを重ねた結果、男性から女性へと変わったのだと思います。
おそらく、藤原北家によって天智天皇と天武天皇の兄弟の母親である皇極天皇が持統天皇に代わって天照大神の役目を担ったからだと思います。
天照大神はイエス・キリストの血を引く者という意味が籠められているのかもしれません。
天の岩戸神社です。
記紀によると、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、天照大神は天岩戸に引き籠ったとされます。
皮を剥いだ馬とは、赤馬のことで、天武天皇を表しているのかもしれません。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)は天武天皇のことで、馬は蘇我氏が馬具や、皮革製品の技術に長けていたので、蘇我氏の残党の親玉だったようです。
馬が表しているのは一角獣(ユニコーン)の「麒麟」(きりん)でシルクロードを築いたソグド人(蘇我氏)です。
藤原四兄妹に、藤原式家(ふじわらしきけ)があります。
式家は、藤原不比等が県犬養三千代(あがたいぬかいみちよ)と再婚する前に、蘇我馬子の曾孫である蘇我娼子(そがのしょうし)と結婚して、生れた三男の藤原宇合(ふじわらのうまかい)を祖とします。
遣唐使の副使として入唐する前は、馬養(うまかい)と称していました。
藤原氏の中で、馬の養育を担当していたのかもしれません。
この式家が、政略で天武天皇の子孫を滅ぼし、桓武天皇を立てました。
天武天皇の皇統断絶等もあって、蘇我氏の血は、女系ながらも蘇我娼子(そがのしょうし)が引き継ぎ、藤原氏を通す形で天皇家へ現在まで伝える事となります。
蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)も、皇極天皇を通して蘇我氏の血を残したとされますが、蘇我馬子の血は入っていません。
女王卑弥呼は不老不死だと信じられていて、卑弥呼の死後、後継者が現われるまでは、それを隠す必要があり、岩戸に隠れたと表現したのかもしれません。
夜には太陽も沈みます。
新しく岩戸が開いた時が、新王朝の始まりだというわけです。
その後、卑弥呼は白山権現(はくさんごんげん)、白山明神(はくさんみょうじん)などと呼ばれます。
山に積もった「雪」の女神であり、菊理媛命(きくりひめのみこと)という「白菊」(しらぎく)を象徴する女神となります。
ここから階段を下って行きます。
京都の東北に位置する比叡山(ひえいざん)とは対になる形で北西に愛宕山(あたごやま)があります。
藤原式家が権力を握っていた平安時代初期には、比叡山は日枝(ひえ)の神である猿田彦大神、つまり藤原鎌足、武内宿禰を意味するのに対して、愛宕山は持統天皇で、神功皇后を意味する木花咲耶姫の桜の山だったのだと思います。
愛宕(あたご)の宕(たご)とは岩屋(いわや)の事で、愛の岩屋、愛の聖杯という意味です。
現在は、産まれる時に伊弉冉命(いざなみのみこと)の陰部を火傷させて殺してしまった火の神様である迦具土神(かぐつちのかみ)が祀られている事が多いのですが、怒った伊弉諾命(いざなぎのみこと)に斬られ、その死体から八人の子供が生まれるのは、イエス・キリストの血を主要な八氏族に分けた八咫鏡と同じ意味があり、飛び散った血は賽の河原に五百の石となって転がったとされ、これが天照大神の八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の別名の五百箇御統玉(いおつのみすまるのたま)を意味するのだと思います。
この勾玉を素戔嗚尊が口で砕いて吹いた息から生まれたのが五人の男神で、長男の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)や神武天皇へと繋がっていき、この世を支配する天皇として存在する事となります。
一方、十拳剣(とつかのつるぎ)を天照大神が口で砕いて吹いた息から生まれたのが弁財天を含む宗像三女神で水の神となります。
火伏せの神とは宗像三女神なのではないかと私は思います。
親鸞聖人が阿弥陀如来を水に例えた背景にはこういった事があったからなのかもしれません。
本居宣長(もとおりのりなが)は「古事記伝」で迦具土神が母を犠牲にして産まれて来た「仇子」(あたご)が「愛宕」(あたご)の語源だと述べていて、柳田國男(やなぎだくにお)は「地名の研究」で日隠(あて)の岩屋の「塞(さい)の神」が火伏せの神、石の神の意味が加えられたと考えたようです。
「塞の神」は賽の河原で子供達を助ける地蔵菩薩の六地蔵(ろくじぞう)が有名ですが、そこに猿田彦大神の道祖神を加えた勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)が愛宕山の本尊に最終的になったようです。
「三倉」(桜)が「鎌倉」になったという事です。
「三倉」の三は火の小屋で、海幸彦、山幸彦、河幸彦の三人の食べ物の神様を産んだ事に由来します。
愛宕山から嵐山に吹き降ろす風は、桜の花を吹き散らす風だと言われます。
風は風神の龍田明神で、天武天皇を意味しましたが、藤原鎌足が取って変わったという事のようです。
風神の天狗達が団扇で風を起こしているのかもしれません。
島根県に石見国(いわみのくに)がありますが、語源は岩の多い海で岩海(いわみ)とか、岩満(いわみ)とか色々な説がありますが、私は浴(ゆあみ)が語源ではないかと思います。
奈良時代に発見された玉造温泉はメタケイ酸が多く高級化粧水レベルの温泉だと言われ、肌が玉のように美しくなる温泉だと知られていたようです。
清少納言も枕草子でも逸話を紹介していて、出雲国風土記で少彦名神が発見した温泉で一度入ると容姿が端麗になり、二度入ると万病が治る神の湯とされます。
岩の中身が氷なのか湯なのか謎が深まりますが、少彦名神という神は塞の神で、火、水、風の三宝を司る竃の神でもあり、三宝荒神とも呼ばれ、迦具土神と同神だとされます。
天台宗の智顗(ちぎ)の前世だとされる薬王菩薩(少彦名神)であり、法華経に出て来るお釈迦様を過去から未来へと輪廻転生しながら人々を教化する久遠仏へと導いた大通智勝如来で、金剛界大日如来と同じ仏様だとされます。
その正体はイエス・キリストの血を引く蘇我倉山田石川麻呂で、日本では木花咲耶姫の父親の大山津見神(おおやまつみのかみ)が大通智勝如来だとされた長い歴史があります。
法華経の産みの親です。
温泉が万病を治す薬だと考えられていたようです。
後で、水の恵比寿さん(藤原鎌足)とも習合する形になりますが、元々は火の迦具土神が本体です。
大日如来には金剛界大日如来と胎蔵界大日如来の二人の仏様がいますが、中身と器で、イエス・キリストとマグダラのマリアを意味します。
元々は毘沙門天が金剛界大日如来で、吉祥天が胎蔵界大日如来とされました。
奈良時代に聖武天皇と光明皇后が毘沙門天王経や金光明最勝王経を信仰して日本中に国分寺を建てたのは周知の事実です。
この毘沙門天という神様はシルクロードの崑崙山(こんろんさん)、ウイグル自治区の和玉(ホータン)と呼ばれるヒスイの産地の守り神で、蘇我氏の財力の象徴でもありました。
聖武天皇と光明皇后が奈良の東大寺に大仏を造り、八幡神を勧請して神仏習合(しんぶつしゅうごう)させたのはご存知の方も多いと思います。
この神仏習合をする時の理屈が本地垂迹(ほんじすいじゃく)という考え方なのですが、たまに、本地垂迹は法華経が最初に書かれた経典で、元祖だと主張される方もおられるのですが、法華経が生まれた背景、歴史、理由が全く分かっていないのか、分かっていて見ないようにしているのか理解に苦しみます。
そういう方は、お釈迦様が垂迹で、久遠仏が本地だと言われるのですが、それを導いたのが大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)だと、ちゃんと法華経に書いているのにそこは無視して法華経だけを切り取って話を進めようとされます。
私は仏教は縁という繋がりを大切にする教えなので、法華経も然りだと思っています。
歴史や時代背景を考えないで単独に存在するものではないと思っています。
たまに、ネットや書物で熱心な法華経信者の方が阿弥陀如来や浄土教を批難しているのを見かけますが、私は法華経は器、中身は菩薩だと思っていて、その菩薩を生み出した最初の切っ掛けが阿弥陀如来だと思っています。
使徒トマスによって仏教が輪廻転生を受け入れ大乗仏教が生まれ、法華経が生まれたのだと思います。
だから、親を否定する子供と同じで、繋がりを無くして法華経が元々あったのだと間違った認識をしているのだと思います。
キリスト教なども、深く法華経の誕生に繋がっていると私は思います。
もし関係がないというのであれば、それ以前のお経には書かれていないキリスト教的な要素はどう説明するのか、弥勒菩薩をどう説明するのか、大乗仏教をどう説明するのか、歴史という繋がりを絶って説明が出来るのか興味がわきます。
毘沙門天という神様はインドのヒンドゥー教ではヴィシュヌと呼ばれ、10の姿に変わる神様で、その一つが仏教の祖のお釈迦様だとされ、ヒンドゥー教と仏教の橋渡しをする神様としてお釈迦様の聖地のネパールでは崇拝されています。
この神様が本地垂迹の始まりで、法華経に影響を与えた大通智勝如来の正体です。
でも、日本では中身も大切ですが器も大切にしようと、あえて女神である天照大神を最高神にしたのだと思います。
吉祥天は毘沙門天の器であり、法華経の善女龍王です。
ただ、この器は途轍もない大きな器で、宇宙の全てが入る器とも言われています。
吉祥天が菩薩になった時の姿が観音菩薩で、法華経の中の観音経に功徳が説かれます。
三十三の姿に変わって衆生を救う事から普門示現(ふもんじげん)とか応現(おうげん)とかと呼ばれ、これが毘沙門天の十の変化のアヴァターラの仏教版とも言えなくもないですが、第一の変化身をブッダとせずに無難に仏としたのは、観音菩薩を主役にしたいわけでもなく、ヒンドゥー教の真似だと非難されるのを避けたかったからだと思います。
その為、法華経の作者は毘沙門天という名前ではなく、大通智勝如来という誰もが知らない名前を付けて、お釈迦様も過去から未来へと続く久遠仏で、歴史という繋がりを強調したのだと思います。
法華経がリスペクトしたかったのはヒンドゥー教ではなく、カトリックのキリスト教でもない、イエス・キリストの本物の教え、平等なのだと思います。
第三十三代天皇の推古天皇の、この三十三という数字も偶然ではなく、敢えて系図に架空の天皇も加えて数字を合わせたのだと私は思います。
南フランスのサントボームの洞窟で33年間瞑想したとされるマグダラのマリアを表す数字ですが、おそらく、カトリックから逃れて捕まるまでの年月を表しているのだと思います。
マグダラのマリアには娘がいたとされ、その娘の遺体は見つかっていません。
その血族がトマスと共にインドから中国へと渡り、蘇我氏や秦氏に守られながら太陽が昇る天国に一番近い島、エデンを目指して日本に辿り着き、推古天皇に繋がっているのだと私は思います。
ユダヤ教では異教の神を祀るイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、アッシリア人との混血として生まれたサマリア人を異教の神を祀った罰だと蔑すみ差別しました。
イエス・キリストはこれを、善きサマリア人の例えで諫(いさ)めて、異教の神を祀るアッシリア人を洪水から救うために全知全能の神ヤハウェがヨナを遣わしたとされる旧約聖書のヨナ書を重要視して、アルメニアから原始キリスト教が生れ、異教徒の地母神イシュタル(アスタロテ)と融合したマグダラのマリアがギリシャ神話のアルテミスとして神格化されます。
なので、トルコのアルテミスは処女神ではなく、乳房を沢山つけた豊穣神で、カトリックの影響で改変されたギリシャ神話(ローマ神話)以前の形を残していると言えそうです。
原始キリスト教徒が目指したのは異教徒を排除するのではなく救うという事です。
これが、法華経の生まれた理由です。
だから、敵である提婆達多(だいばだった)も救われるし、鬼も龍も救われます。
トルコが原産のハシバミの木(ヘーゼルナッツ)もケルト人の聖木でしたが、魔女の木、異教徒の木としてカトリックからは排除されます。
シンデレラは灰被り姫(はいかぶりひめ)と呼ばれ、灰(はい)や煤(すす)で汚れた衣装を着ていましたが、ハシバミの木の魔法でドレスへと器(服)が変わり、王子様と結婚して幸せを掴みます。
異教の神を信仰するマグダラのマリアを魔女として魔女狩りをしたのがカトリックです。
この室生寺がある宇陀(うだ)に榛原(はいばら)という地名があり、ハシバミの木が多い事が由来とされ、墨坂神社(すみさかじんじゃ)という神社があります。
造化三神と伊弉諾命、伊弉冉命、大物主命の六神を祀る神社ですが、神武天皇が敵から山焼きで攻められた時に、兎田野川の水で火を消して敵を打ち破ったとされる神社で、住吉大神や、海神(わだつみのかみ)とされる恵比寿で、藤原鎌足を表しているものと私は思います。
海の神様なので、血の臭いを好み鼻が利くサメが嫌う墨の臭いを身体に彫って難を逃れようとした海女(あま)さんの入れ墨の墨(すみ)の意味もあるのだと思います。
安曇氏(あずみし)や、宗像氏(むなかたし)が墨を代表する海神族(あまぞく)です。
女性の僧を尼(あま)と呼ぶのも、どちらも女性を意味していて、女性が天(あま)で男性が地(ち)になります。
中身である高野山の「僧」(そう)ではなく器である女人高野の「室」(むろ)が生まれた瞬間です。
愛宕山 しきみの原に 雪積り 花摘む人の あとだにぞなき
曽禰好忠(そねよしただ)
雪が降って樒(しきみ)の花を摘む人もいないので、山頂の愛宕神社にお参りする人もいないだろうという詠嘆の歌だとされます。
樒(しきみ)は諸行無常の四季(しき)の識(しき)を観る唯識(ゆいしき)を表していると思われます。
持統天皇を桜にしようとした藤原式家(ふじわらしきけ)に当てた強烈な皮肉だと思われます。
愛宕山は元々は手がヒスイの玉のように白かった持統天皇の手白(てしろ)から手白山(てしろやま)と呼ばれていたようです。
手白の意味するところは手白香皇女(たしらかのおうじょ)で、玉のように白い手の元祖で、天武天皇の血を男系から女系へとひっくり返して桓武天皇に繋ぐ役割を持統天皇がするように藤原式家が画策したのだと思います。
仁徳天皇から続いた皇統が途絶えかけますが手白香皇女が継体天皇の皇后になる事で絶え間が埋まります。
私は、この蘇我氏が活躍した古墳時代の系譜は平安時代後期の藤原北家が創作した系譜で、天武天皇まで続いた奈良時代の蘇我氏の系譜が、紀橡姫(きのとちひめ)が志貴皇子(しきのみこ)の皇后になる事で平安時代に移る絶え間が埋まった事のオマージュ的な要素として組み込まれたのだと思います。
仁賢天皇が天智天皇で、武烈天皇が大友皇子、顕宗天皇が天武天皇、手白香皇女が持統天皇だったのを紀橡姫が置かれています。
そして、欽明天皇が仁明天皇(にんみょうてんのう)で、ここで現実では手白香皇女が持統天皇から橘嘉智子(たちばなかちこ)に変わります。
持統天皇を玉の手にしようとした藤原式家の企みが長岡京の遷都で、藤原北家に阻止され、代わりに同じイエス・キリストの血を引く県犬養三千代の子孫である橘嘉智子を新しい玉の手として天皇家に繋いだのだと思います。
そして、この仁明天皇の子孫が法然上人(ほうねんしょうにん)で、浄土教を日本に広めていきます。
紀橡姫が持統天皇を橘嘉智子に変える役目の田口氏の女性で、手白(てしろ)は田代(たしろ)で、田んぼの外側、口の部分を意味しているように思います。
紀氏が皇極天皇の葛城氏や藤原鎌足の中臣氏など主要な八氏族を乗せた紀船(貴船)で、王仁吉師の西漢氏として田口氏を通じて天皇家へと繋がります。
「橡」(とち)は馬の餌である「馬栗」で、鴨の餌である「菱」(ひし)の「水栗」の代わりで、馬が蘇我氏、そしてお稲荷さんのシンボルで、持統天皇から皇極天皇に天照大神の役目が引き継がれている事を表しているのだと思います。
カトリックはマグダラのマリアの存在を打ち消す為に、聖母マリアを立てました。
その為、マグダラのマリアを擁護する人々からは厄介な存在だったかもしれません。
これが、仏教では吉祥天の母親の鬼子母神として取り込まれ、当初は悪神とされましたが、大黒天と共に法華経を守護する神様となります。
素戔嗚尊と天照大神がお互いの持ち物を交換して口で砕いて八柱の神様を生んだように手白香姫は口を象徴しているのかもしれません。
若さを表す手白香姫は手白髪姫とも書かれるので、禁断の玉手箱を思い浮かべます。
吉祥天が鬼子母神に、御歳神が大歳神に、持統天皇が皇極天皇に変わります。
裏切りを手のひらを返すというのも、ここから来ているのだと私は思います。
なんの根拠もない私の勝手な想像ですが、藤原式家であった藤原種継(ふじわらたねつぐ)の暗殺には猛毒の「樒」(しきみ)が使われたのではないかと思います。
「樒」は花の姿が似ている事から空海が青蓮華の代用として使用したと言われています。
青蓮華は毘沙門天のシンボルです。
事実は闇の中ですが、浄土教と「樒」が強固に結び付いていくのは藤原北家が意図して画策した事なのではないかと想像してしまいます。
平らな岩盤の上を、滑るように、ゆっくりと水が流れて来ます。
こういう滝を、滑滝(なめたき)と言い、雨乞いが行なわれたことから、「招雨瀑(しょううばく)」と呼ばれます。
水の流れる音が、静かに響きます。
着きました。
柵の向こうが龍穴のようです。
ここで、桓武天皇が雨乞いの祈祷を行なったと言われます。
「日本紀略」延喜10年(910)7月10日条に、雨乞いの際に、室生龍穴に牝馬を投げ込んだと書かれています。
日本各地で、雨乞いに馬を生贄にした風習が残っており、この室生龍穴が発祥の地のようです。
おそらく、当初は、馬は蘇我氏を表し、牝馬は、推古天皇のつもりで、龍神に捧げる儀式だったのだと思いますが、時代が変わり、祈願をする際に高価な馬を殺さずに奉納する風習に変わっていき、現在の「絵馬」(えま)の形態にまで発展したのだと思われます。
どこの神社にも、馬の像が奉納されている理由は、ここから来ています。
龍神は、生贄なんかは望んでいなかったと思われますが、ここが、「絵馬」の発祥の地と言えそうです。
龍神とは元々は八岐大蛇(やまたのおろち)=物部守屋を指していたものだと思われますが、桓武天皇の平安時代以降には推古天皇が九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)という龍神になり、入れ変えられたようです。
皇極天皇の葛城氏の「葛の葉」(くずのは)という白狐の意味も含まれた名前だと思います。
それでは、そろそろ帰りましょう。
戦後の日本を代表する写真家の一人、土門拳氏(どもんけんし)が室生寺の住職に「どの季節の室生寺が良いか?」と尋ねたところ、「白皚々(はくがいがい)たる雪の室生寺が第一等」との言葉を聞き、40年の月日を経て、執念で雪の室生寺を撮ったと言います。
そして、室生寺を一躍有名にしたと言われるのが「室生寺 雪の鎧坂金堂見上げ」の一枚です。
まるで水墨画のような景色です。
JR東海さんの「室生寺」のCMも良く出来ているので、一緒に載せさせていただきました。
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