今日は、聖徳太子の誕生地という伝承のある橘寺にやって来ました。
入口の門の前に、右近の橘と、左近の桜が植えられています。
橘の紋が刻まれた、こちらの馬は、聖徳太子が乗っていたとされる黒駒(くろこま)と呼ばれる馬です。
「扶桑略記」(ふそうりゃくき)によると、聖徳太子が試乗すると、空を飛び、富士山の頂上まで飛んでいったという逸話もある空を駆ける馬です。
おそらく、この馬は、八咫烏(やたがらす)を表しているようです。
京都に烏丸御池(からすまおいけ)という地名がありますが、これも八咫烏の事で「烏」(からす)にくっついている「丸」(ま)は「和」(わ)であり、水の融合を表すと共に、八咫烏が守る「太陽」を意味します。
烏丸御池は私は嵯峨天皇(さがてんのう)の造った神泉苑(しんせんえん)の善女龍王が眠る法成就池(ほうじょうじゅいけ)の事だと思っています。
この池には法成橋(ほうじょうばし)が掛かっていますが、「法成」(ほうじょう)は宝生如来(ほうしょうにょらい)の事で、善女龍王、吉祥天、観音菩薩、軍荼利明王、みんな同じ仏様で、その中でも一番深い悟りの境地に到達したのが宝生如来になります。
元祖である天照大神を意味します。
神武天皇(じんむてんのう)と呼ばれる日本で最初の天皇がいます。
八咫烏(やたがらす)に導かれて、熊野国から大和にやって来た人物です。
神武天皇は、日本書紀では、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と言い、「最初に国を治めた天皇」だとされます。
蘇我氏と関係の深い畝傍山の麓に橿原神宮を建て、蘇我氏を象徴する天皇です。
しかし、第10代に、崇神天皇(すじんてんのう)と呼ばれる天皇がいて、彼も、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれています。
崇神天皇(すじんてんのう)は、饒速日命(にぎはやひのみこと)=大物主命(おおものぬしのみこと)を神格化した天皇で、物部氏の天皇と言え、日本には別々の二人の初代天皇が存在したことになります。
これは、蘇我氏の業績を、物部氏の業績に統合する為に、故意に、同じ名称を用いたものだと私は思います。
八咫烏という馬は、その為に必要不可欠な存在だという事みたいです。
聖徳太子は、この橘寺で生れたとされます。
当時、ここは欽明天皇(きんめいてんのう)の「橘の宮」と呼ばれる別宮だったとされます。
欽明天皇(きんめいてんのう)と、蘇我堅塩姫(そがのかたしおひめ)の子が、推古天皇(すいこてんのう)と用明天皇(ようめいてんのう)で、用明天皇は蘇我氏の血を引く最初に即位した天皇で、橘豊日命(たちばなとよひのみこと)という名前でした。
そして、用明天皇(ようめいてんのう)と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間に厩戸皇子(聖徳太子)は生まれたとされます。
厩戸皇子(うまやどおうじ)は、19歳で、推古天皇(すいこてんのう)の摂政となり、補佐を勤めたとされ、587年の丁未の乱(ていびのらん)で、物部守屋(もののべもりや)を滅ばした張本人であり、蘇我氏を象徴する皇子と言えます。
しかし、この橘寺の創建の話を見ると、疑問が生まれます。
聖徳太子は、敏達天皇元年(びだつてんのうがんねん)(572年)に、母妃が宮中の厩(馬屋)の前に来られた時に、お産みになり、厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれました。
それから、3年が経ち、敏達天皇3年3月の3才の時に、父君と母妃は太子をつれて公園で遊んでいたそうです。
その時、父君が「松の枝」と、「桃の花」を手にとって、「太子は、どちらが好きか?」と尋ねられたそうです。
その時の太子の答えが、「私は松が好きです」と言うもので、その理由を父君が問うと、「松は万年の間、枯れない木です」と答えたと言います。
私は、この話に違和感を覚えます。
何故なら、「桃」は蘇我氏を象徴する木で、「松」は物部氏を象徴する木だからです。
物部守屋を滅ばした聖徳太子なら、「桃」を選択するのが普通です。
また、3という数字も、「寅」を表す数字で、天武天皇を象徴する動物です。
蘇我氏の逸話を創作するのであれば、本来「酉」表す9のはずです。
それから、田道間守(たじまもり)が「橘」を持ち帰り、最初に植えたのが、このお寺だとされ、それが、この橘寺という名前の起源とされます。
道教の不老不死の果物の「桃」が、「橘」に変更され、蘇我氏の色が完全に消されてしまいます。
田道間守(たじまもり)とは、皇極天皇(こうぎょくてんのう)のモデルだと思われる神功皇后(じんぐうこうごう)と同じ天之日矛(あめのひぼこ)の子孫だとされ、但馬(たじま)に子孫が移り住んだ氏族だと言われます。
丹波が天照大神の内宮、丹後が豊受大神の外宮で、但馬は出雲大社を表しているのかもしれません。
田道間守(たじまもり)も、田道間(たじま)だけでいいと思うのに、わざわざ守(もり)を付けているのは何故なのか?
これも、先ほどの烏丸(からすま)の丸(ま)と同じで省けない理由があるはずです。
おそらく、「田島」(たじま)と書くと分かり易いのですが、「田の島」とは「田」という漢字の中の「十字架」の部分の「畦」(あぜ)を表していて、「十字架を守る」という意味になるのだと思います。
そして、田道間守(たじまもり)は、そのまま橘氏を表していて、イエス・キリストの血を守る氏族の象徴なのかもしれません。
イエス・キリストの血というと唐突で、何を言っているのか分からないと思いますが、ネストリウス派の景教徒(けいきょうと)が守っていたイエス・キリストの血脈が、推古天皇を通して日本の皇室の中に流れていて、皇祖神の天照大神がマグダラのマリアを象徴する神様として祀られる事になったのだと私は思っています。
旧約聖書の申命記の第8章に聖絶(せいぜつ)となってカナンの地を追われた七つの異邦人が記されていますが、これが日本の七福神で、マグダラのマリアを守る七つの民、つまり、北極星の周りを回る北斗七星になるのだと思います。
七福神が乗っている宝船が救世主を望んだフェニキア人の船で、カトリックがマグダラのマリアに取り憑く七つの悪霊だと非難した人々だと思います。
秦氏というのは秦の始皇帝の末裔ですが、秦のルーツは西戎(せいじゅう)で、百済の東夷(とうい)と共に私はエブス人が中国大陸に渡って繁栄した民族だと思っています。
女王卑弥呼と同盟を結んだ魏の曹氏も西戎出身だと言われています。
何故、ユダヤ教を信仰しない異邦人とマグダラのマリアが結び付いたかというと、キリスト教の核はヨナ書で、異邦人からまずは救われるというイエス・キリストの信仰の骨子と、救世主を待ち望む異邦人の肉付けの利害が一致したのだと思います。
アケネメス朝ペルシアと同盟を組んでいたフェニキア人の船は、アレキサンダー大王の遠征によって地方に散り、その過程でシルクロード交易の陸のソグド人とも結び付き、日本にやって来たのだと思います。
蘇我氏がソグド人で、秦氏がフェニキア人です。
ヨナ書で神様から罪を許されて洪水を免れるアッシリア人は、阿修羅(アシラ)を信仰した人々で、これが後にペルシアに渡ってアフラ・マズダーと呼ばれる神となり、素戔嗚尊の原型になったのだと思います。
中東には太陽神を祀るミトラ教(弥勒菩薩)があり、そこにアフラ・マズダー(阿修羅)を最高神とするゾロアスター教が生まれてアケネメス朝ペルシアの時代には小アジアにまでゾロアスター教が広がりました。
ササン朝ペルシアの時代になってからは教祖のマニが、ゾロアスター教、キリスト教、仏教を融合させてマニ教と呼ばれ、蘇我氏が日本に持ち込もうとしていた仏教とはこのマニ教だと思います。
秦の始皇帝は目が青くペルシア人の血を引く人物でもあったようで、中国大陸を支配し、統治する上でペルシアの文化を模倣したようです。
ネストリウス派の景教徒は、秦に辿り着いて救世主を待ち望む異邦人の中心的な存在となって、不老不死の東国を目指したのではないかと思います。
飛鳥時代の飛ぶ鳥とは「鳳凰」(フェニックス)の事で、七姓漢人(しちしょうかんじん)が守るイエス・キリストの血、つまり聖杯を守る鳥なのだと思います。
聖徳太子の各地の伝承を調べると、不自然なものが数多くあります。
このような違和感から、聖徳太子の存在自体を疑う人もあり、聖徳太子がいなかったという説を唱える人もいます。
聖徳太子がいなかったとすると、物部氏は、いったい誰に滅ばされたのかということが問題になり、「日出処の天子」の国書を持たせ、遣隋使(けんずいし)を送って隋の煬帝(ようだい)を怒らせた人物は、聖徳太子ではなかったのかという疑問が生じます。
「隋書」(ずいしょ)と呼ばれる中国の歴史書の「東夷伝」(とういでん)に開皇二十年(600年)=推古8年、日本の王は姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしひこ)と書かれていて、聖徳太子の父親の用明天皇(ようめいてんのう)のことだと解釈されています。
しかし、敏達天皇が崩御して、推古天皇が即位するまでの用明天皇の在位は2年と短く、書紀に記載された推古天皇の年齢から逆算すると、即位していなかった可能性もあるのではないかと指摘されています。
天照彦(あまてらしひこ)が訛った可能性もありますが、この阿毎多利思北孤(あまたりしひこ)と呼ばれる男の王とは、いったい誰なのかという問題が改めて浮上します。
阿毎多利思北孤(あまたりしひこ)は、蘇我入鹿と同一人物だという説があります。
蘇我入鹿は、蘇我蝦夷(そがのえみし)の子で、蘇我馬子の孫とされていますが、蘇我入鹿が聖徳太子だと分りにくくする為に、この系図自体が嘘であり、創作ではないかという説です。
飛鳥には当時、蘇我馬子が建てた日本最古の仏教寺院の法興寺(ほうごうじ)と呼ばれるお寺がありました。
百済の第29代の王の法王(ほうおう)が百済に建てた王興寺(おうごうじ)と対になっていて、法と王で鳳凰(ほうおう)を表していました。
当時、百済は大国の高句麗と倭国に挟まれていて、倭国の属国に近い関係だったので、鳳(ほう)の方が日本になっていたようです。
この法興寺には、聖徳太子が師匠とした、高句麗の僧の恵慈(えじ)と、百済の僧の恵聡(えそう)が住んでいて、聖徳太子と共に「三宝の棟梁」(さんぽうのとうりょう)と呼ばれていました。
このお寺の初代、寺司(てらのつかさ)が蘇我馬子の長男の蘇我善徳(そがぜんとこ)という人物で、仏教に精通した彼こそが蘇我入鹿であり、聖徳太子の本名だという説です。
仁徳天皇(にんとくてんのう)と呼ばれる天皇がいます。
そのお墓は、大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)と呼ばれ、墓域面積は秦の始皇帝陵を凌ぎ、世界最大だとされます。
この古墳は前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)なのですが、前方部に「造り出し」と呼ばれる「耳」のような突起がついている珍しい形です。
私は、この大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)は、「耳」を象徴する聖徳太子のようなお墓で、百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)とも呼ばれ、陵墓造営中に野から鹿が走り込んできて絶命し、その鹿の耳の中から百舌鳥(モズ)が現れたことから地名を「百舌鳥耳原」(もずのみみはら)と名づけたとされます。
春されば もずの草ぐき 見えずとも 我は見やらむ 君があたりをば
この歌は万葉集や柿本人麻呂歌集に収められている百舌鳥の一首です。
作者は不明ですが、意味は百舌鳥は春が過ぎると草の茂みに隠れて姿が見えなくなりますが、私はあなたの住んでいる家の方を見ていますよという意味になります。
姿が見えなくても家の方を見れば分かるという事を示唆していると思います。
私は仁徳天皇とは蘇我倉山田石川麻呂の事で、大国主命を表している人物だと思っています。
大国主命を祀る出雲大社が大きいのは衣食住の住を表しているからだと思っています。
つまり、大国主命(蘇我倉山田石川麻呂)を見れば分かるという意味だと思います。
百舌鳥が隠れる草ぐきとは天武天皇と持統天皇の子供であった草壁皇子(くさかべのみこ)の比喩で、草壁皇子は皇位に就くことなく若くして亡くなりましたが、その子である文武天皇や、聖武天皇、孝謙天皇など草壁皇子の子孫達が奈良時代を築きました。
その子孫達の中に百舌鳥が隠れていたという意味だと思います。
鹿の比喩ですが、おそらく持統天皇を表しているのだと思います。
百舌鳥川の下流が百済川だったり、百舌鳥百済村古墳群だったり、百舌鳥と百済は一つだと言いたいのかもしれません。
私は藤原鎌足は扶余豊璋(ふよほうしょう)で、百済の滅亡後に日本に帰化して中臣氏を名乗った百済の王族だと思っています。
桓武天皇(かんむてんのう)の父親は天智天皇の子孫ですが、母親は百済の王族の高野新笠(たかのにいがさ)で母方が土師氏(はじし)になります。
土師氏は菅原道真など、蘇我倉山田石川麻呂の子孫になります。
百舌鳥(モズ)は鳥の中では珍しく、秋になると捕らえた獲物を木の枝等に突き刺し、食料が無い時に食べる目的で貯蔵する習性があり、その様子を「モズのはやにえ(速贄)」と呼んだりします。
お腹が空いていない時でも百舌鳥は狩りをする習性があり、獲物を枝に刺したまま取りに来ない事もあるようですが、おそらく、餌が豊富に捕れて食べる必要が無かった保存食なのだと思います。
百舌鳥は雀(すずめ)などの小鳥なども捕らえて食べてしまうので、小鳥に自分がいる事を悟らせないために他の鳥の鳴き声を真似たりするようです。
鳴き声のレパートリーが多いので、どれが百舌鳥の鳴き声か分からないと言います。
「百の舌」とはその為に付いた名前ですが、「百の下(舌)」という意味から天武天皇を意味する「九十九」(つくも)の意味や、百を一と白に分けて下の部分が「白」なので皇極天皇の白虎(びゃっこ)という意味など、平安時代の人は駄洒落とかが好きなので、なぞなぞのような答えも考えてしまいます。
鹿を生贄に捧げる御頭祭(おんとうさい)がある諏訪大社(すわたいしゃ)のご祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)ですが、私は、この神様も天武天皇を表していると思っています。
生贄を捧げるという共通点を考えると鹿を殺した百舌鳥とは天武天皇の事なのでは?と考えてしまいますが、元々は鷹が天武天皇のシンボルなので体の小さい百舌鳥ではイメージが重なりません。
藤原鎌足は百舌鳥が止まる茨の木で、大織冠(たいしょっかん)という最高位の冠位を天智天皇から賜りましたが、壬申の乱で天武天皇が天智天皇の皇子である大友皇子を殺害してからは、藤原鎌足の子孫は処刑されたり、千葉県の九十九里浜に流されたり、イエス・キリストと同じように茨の冠となったようです。
諏訪大社の守屋山(もりやさん)は旧約聖書の創世記に登場する「我が子イサクを捧げよ」の舞台であるモリヤ山で、人間の身代わりとなる生贄の動物である羊が日本にはいないので、御頭祭では同じ角のある動物として鹿が選ばれたようです。
キリスト教ではこの身代わりの羊がイエス・キリストだとして、人間の原罪を全て引き受けて新しい契約を神様と結んだのが新約聖書です。
応神天皇(おうじんてんのう)には大鷦鷯命(おおささぎのみこと)、大山守皇子(おおやまもりのみこ)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の母違いの3人の皇子がいて、大山守皇子が菟道稚郎子を殺そうとして反対に菟道稚郎子に宇治川に沈められて殺され、残った大鷦鷯命と菟道稚郎子は互いに皇位継承を譲り合って3年も結論が出ず、このままでずっと天皇がいない状態が続く事は世の中の為にならないと菟道稚郎子が自ら命を絶って大鷦鷯命が即位して仁徳天皇となったとされます。
大鷦鷯命の鷦鷯(ささぎ)とは鷦鷯(みそさざい)という鳥の事で、三十三才(みそさざい)とも書かれます。
この天皇にこの鳥の名前が付いている理由が、大鷦鷯命が生まれる時に部屋の中にミミズクが飛び込んで来たそうで、応神天皇の家臣である武内宿禰の子の平群木菟宿禰(へぐりのづくのすくね)も同じ日に生まれて、同じように部屋にミソサザイが飛び込んで来て、こんな不思議な事が同時に起こるのは吉祥の兆しだと2人の子供にお互いの鳥の名前を交換して付けたからだと言います。
私は奈良時代は、大山守皇子は大友皇子(おおともおうじ)で物部氏を、菟道稚郎子は村国男依(むらくにおより)で秦氏を、大鷦鷯命が天武天皇で蘇我氏を表していたのだと思います。
だけど、平安時代以降は武内宿禰の子の平群木菟宿禰と大鷦鷯命が入れ替わったのだと思います。
天照大神は秦氏で、素戔嗚尊は蘇我氏だったのですが、神話では誓約(うけい)によってお互いの持ち物を交換して子供を生んでいるので、菟道稚郎子が蘇我氏で、大鷦鷯命が秦氏に入れ替わっていて、大鷦鷯命(秦氏)と平群木菟宿禰(藤原氏)の名前の交換は子孫が入れ替わった事を表しているようです。
平群木菟宿禰とは藤原南家の祖の藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ)で、源氏物語の柏木(かしわぎ)のモデルだと思います。
つまり、天武天皇の「樫の木」(かしのき)が神話の誓約によって持統天皇の「楢の木」(ならのき)に代わって、それが藤原武智麻呂の「柏の木」(かしわのき)とまた入れ替わって藤原南家が天武天皇や持統天皇、蘇我倉山田石川麻呂(安倍御主)の代わりをするという事のようです。
聖徳太子の一族は蘇我入鹿によって皆殺しにあっていますが、娘の片岡女王(かたおかのひめみこ)だけ助かっているという説があります。
その根拠が法隆寺資材帳と呼ばれる書物に法隆寺の再建に関わっている人物に片岡御祖命(かたおかみおやのみこと)という名前が記載されているというものです。
そして、もう一つは太子子孫を蘇我入鹿が殺し、片岡女王の兄である山背大兄王(やましろおおえのおう)の子の弓削王は大狛法師が殺害したと聖徳太子伝補闕記に書かれているのですが片岡女王と葛城王だけ沢山名前が書き連ねられている殺害リストから抜け落ちているからだそうです。
私は聖徳太子は実存しないと思っているので、片岡女王は持統天皇の象徴で、葛城王は天智天皇の象徴なんだと思います。
聖徳太子の前世が中国天台宗の開祖の師である南嶽慧思(なんがくえし)で、達磨大師(だるまたいし)がある日、寺院を訪ねて来て「海の東に行って仏法の教えを広めて欲しいから先に行って待っている」と言って、それに応じた慧思が聖徳太子となって生まれ変わり、奈良県の王寺にある片岡山で飢人(きじん)を見て達磨大師だと直ぐに分かったというものです。
片岡山は大和片岡氏(やまとかたおかし)の本拠地で、藤原鎌足の中臣氏の系図と、藤原南家の當麻寺の藤原豊成の系図の二つの系図があり、私は両方存在したのだと思います。
大狛法師の本拠地である柏原の柏原氏も高句麗の渡来人ですが、片岡氏と同族になっていったのだと思われます。
片岡氏の家紋は水を表す三つ巴紋で、飢人とは紀人(きじん)で、甲賀を生み出した金毘羅さんの忍壁皇子(おさかべおうじ)を象徴しているのだと思います。
片岡氏のもう片方は岡寺の法相宗の義淵(ぎえん)で天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子と一緒に育てられた物部氏の人物で、光の草壁皇子に対して影のような存在でしたが、平安時代には逆さまにひっくり返って光の存在に昇格しました。
結果から考えて行動を決める事を「験(げん)を担ぐ」と言いますが、元々は縁起の漢字を逆さまにして「起縁(ぎえん)を担ぐ」という言葉が元々存在したようで、「義淵」(ぎえん)に掛けていたのかもしれません。
それが、いつからか「元(げん)を担ぐ」という意味で修験道の「験」が選ばれたようです。
元(げん)には元(もと)という意味もあり、推古天皇の意味と、安倍晴明の父方で、阿倍御主人(あべのみうし)の生みの親である元明天皇と元正天皇の二人の意味も含まれているのだと思います。
阿倍御主人はキトラ古墳の被葬者で、亀虎(きとら)は玄武の黒と白虎の白の斑(まだら)を表す摩多羅神(またらじん)で、橘氏(蘇我倉山田石川麻呂)が天武天皇(毘沙門天)と持統天皇(弁財天)と婚姻関係を結んだ三面大黒天の意味もあるようです。
ミソサザイは最も小さい鳥とされますが勇敢で賢く、鷲でも怖気づく熊や猪にも立ち向かって耳の中に入って攻撃を加えるとされ、森の王の異名がある鳥です。
スズメの仲間は鳴禽類(めいきんるい)と呼ばれ、カナリアやジュウシマツなど歌の名手が多いのですがミソサザイは雄と雌で歌うデュエットの名手だとされます。
おそらく、マグダラのマリアが七つの音階を用いたビザンティン聖歌の発案者で、イエス・キリストの妻であった事から、マグダラのマリアを象徴する鳥だったのかもしれません。
ミソサザイは西洋では魔女の使いだとされ、聖ステファノの祝祭日にはミソサザイが生贄に捧げられたようです。
恋が実らない象徴の月桂樹(楠木)の小枝を咥えて飛ぶ逸話などがあります。
ミソサザイはデュエットの名手なのに西洋では全て雌鳥だとされ、そのパートナーが全て雄鳥とされるコマドリだとされます。
誰が殺したクックロビンで有名なコマドリです。
犯人は雀でしたが、ユダヤ教のタルムードでは雀はソロモン王からの褒美で何が欲しいか尋ねると金の冠が欲しいと言った欲の象徴でもあります。
コマドリの胸が赤い理由が、イエス・キリストの生まれた日が寒い日だったので暖炉の火を強めようと羽ばたいて火傷を負い、イエス・キリストの最後には茨の冠のトゲを抜こうとして返り血を浴びたからだとされ、変わらぬ愛を示す鳥だとされます。
耳のあるミミズクはトトロを思い出しますが、子供の守り神で親孝行のシンボルのようです。
子供が五百人いたとされる鬼子母神に病気の親の薬が買えない貧しい娘が祈ったところ、夢に鬼子母神が現れてススキでミミズクを作って、売って薬代にしなさいとお告げがあり、そのようにしたところ、飛ぶように売れて薬が買えたというものです。
鬼子母神のもう一つのシンボルであるザクロは聖母マリアの象徴であり、ミミズクとミソサザイの交換は聖母マリア(皇極天皇)とマグダラのマリア(持統天皇)の交換の意味を持つのかもしれません。
持統天皇(弁財天)は推古天皇(吉祥天)の代わりとして天岩戸から出て来た天照大神で、皇極天皇(荼枳尼天)と推古天皇(吉祥天)の交換とも言えそうです。
その両方の意味を含ませる為に、伊勢神宮は内宮(弁財天)と外宮(荼枳尼天)は切り離せない存在となります。
「剣」を包む「布」で、内宮、外宮が「鈴」を表しているようです。
耳の無いズクとはフクロウの事で中国では親を殺して成長する親不孝の象徴とされ、首を切られ木に吊るされたりしたそうで、梟(フクロウ)という漢字はその象形だとされます。
吉祥天の使いの鳥で、先ほどの鬼子母神の娘になり、耳が付くか付かないかで意味が真逆になる鳥です。
フクロウはバビロニアのイシュタルと呼ばれる金星(五芒星)の女神の使いの鳥で、アンズー鳥と呼ばれる智恵の象徴だったのですが、カトリックからすると異教の神であり、悪魔の象徴であったので、それをマグダラのマリアに当てたのが始まりだと思います。
マグダラのマリアはユダヤのベニヤミン族だと言われていて、難産で母の命と交換に生まれて来た仇子(あだご)だったので、愛宕(あたご)の神として、伊弉冉命(いざなみのみこと)の命と交換に生まれて来た迦具土神(かぐつちのかみ)を火の象徴として祀ったのだと思います。
フクロウが親不孝とされたり、下剋上の象徴とされたのは、藤原式家の母方が推古天皇を象徴する氏族なのも理由の一つだと思います。
吉祥天は観音菩薩であり、推古天皇なので、同族の蘇我倉山田石川麻呂を迦具土神として秩父(乳父)に乳娘(ちのいらつめ)の父として祀ったのだと思います。
秩父は和銅開陳(わどうかいちん)の銅が採れた場所であり、天武天皇のシンボルでもあります。
平群木菟宿禰の木菟(ずく)はミミズクではなくズク(フクロウ)を意味している可能性もありそうです。
木幡(こはた)など木(紀)は本来は蘇我氏(そがし)のシンボルなのに秦氏の幡(はた)が無理に貼り付けられているイメージを持ってしまいます。
木幡(きはた)は木綿(きわた)で、絹ではない氏族として粟国の忌部氏(いんべし)として最スタートする事になったのだと思います。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の妻である橘氏を象徴する弟橘媛(おとたちばなひめ)が海の神の怒りを和らげる為に自ら生贄として入水自殺した場所が千葉県の走水(浦賀水道)だとされ、弟橘媛の着物(布)が流れついた場所が布流津(ふるつ)で、ここから富津(ふっつ)という地名が生まれたとされます。
入水は「水をくくる」という意味で、水とは壬生(みぶ)の藤原南家の武智麻呂が熊野三山の天武天皇、持統天皇、蘇我倉山田石川麻呂(推古天皇と同族)の一族を纏めた当麻高田氏を意味するようで、菊理媛(くくりひめ)のお稲荷さんは皇極天皇(阿弥陀如来)に集合する浮舟を表していて、持統天皇は天日鷲命(あめのひわしのみこと)と呼ばれる日本武尊の祖神と習合して、栃木県と茨木県を跨ぐ鷲子山上神社(とりこさんじょうじんじゃ)でフクロウは不苦労(ふくろう)の幸運の象徴として祀られるようになります。
一方、百舌鳥の方は、茨の木を好み、生贄を茨に突き刺す習性があります。
茨の木とは茨の冠を被った藤原鎌足で百済の王族を指し、ミソサザイである秦氏の生贄を百舌鳥が茨の木に突き刺して同族になった事を表しているのかもしれません。
千葉県の香取神宮(蘇我倉山田石川麻呂)と茨城県の鹿島神宮(藤原不比等)は百済と同族になったという意味なのかもしれません。
香取(かとり)は香(か)を取り除くという意味で、笠鷺(かささぎ)から香を取り除くと三鷺(ささぎ)になり、仁徳天皇の意味になります。
三鷺(ささぎ)とは住吉大社の境内にある玉垣の杉の木に止まった三羽の鷺で神功皇后を意味し、杉は伏見稲荷大社のシンボルとして、平安時代には伏見稲荷大社に寄って杉の枝葉を取って身に付けてから熊野詣をするのが習わしだったそうです。
カトリックでは、父と子と聖霊を三位一体と呼んで同等の神格だとしますが、父(ヤハウェ)はレバノン杉、子(イエス・キリスト)は糸杉だとされています。
杉と付きますがレバノン杉は松(まつ)の事で、糸杉はイエス・キリストの十字架の木となった檜(ひのき)を意味します。
そうなると、最後に残った聖母マリアを表す聖霊が杉という事になります。
西洋では松も檜も一括りで杉と表しているので、お稲荷さんの杉は全てを含んでいる意味でも、熊野を統括するシンボルとして便利だったのだと思います。
静岡県の杉桙別命神社(すぎほこわけのみことじんじゃ)では、鶏、卵、酒は食べない鳥精進・酒精進という行事があり、その理由が、杉桙別命が酒を飲んで寝込んでいる時に火事になって、それを鳥達が羽を水に浸して羽ばたいて火を消して命を救ってくれたからだそうです。
ここの神様はおそらく杉の仲間となった持統天皇を表していて、火を消した鳥とはコマドリを表しているのだと思います。
伏見稲荷大社の縁日などで丸焼きにされる雀(すずめ)は茨城県の雀神社で祀られる大己貴命で、蘇我倉山田石川麻呂を意味するのかもしれないですが、「鵲」(かささぎ)も「雀」(すずめ)も天若彦の「若」(わか)と共に「じゃく」と読める事から逆さまを好む天邪鬼(あまのじゃく)を意味していて、伊賀忍者の親玉だとされる藤原千方が首を切られても雲出川(くもずがわ)を遡って川上の川上山若宮八幡宮に辿り着くのも、ここに仁徳天皇と磐之媛皇后が祀られていて、天武天皇と持統天皇の草壁皇子の子孫の奈良時代の天皇達が、草から石に代わる事を暗示しているようです。
石は海の底に沈むので伊勢の海女さんは鳥羽の神明神社の石神様に安全を祈願するそうです。
反対に水に浮かぶ木は、元々は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の桜だったのですが、持統天皇を象徴する木だったのでお稲荷さんを表す杉がシンボルとなり、杉原斎入(すぎはらさいにゅう)と聖徳太子が出会って甲賀忍者が生まれます。
その時に杉の木に聖徳太子の馬を繋ぎとめて、頭を上、胴を真ん中、尾を下と決めたそうです。
何故、こんな当たり前の事を記述しているのかと疑問に思いますが、おそらく、天武天皇を皇室から追い出した平安時代の初期には藤原式家が上下を逆さまにして鴨神社を作ったのだと思います。
上賀茂神社が持統天皇、下鴨神社が蘇我倉山田石川麻呂と遠智娘と、子が上で、親が下に祀られていて逆さまになっていたので、聖徳太子の名前を使って元に戻したというのが真相のようです。
天邪鬼の雲出川(くもずがわ)の本来の読み方はおそらく雲出(もず)で、出雲(いずも)も本来は出雲(ずも)で逆さまにされていたのを分かりにくくカモフラージュしていたのかもしれません。
百舌鳥(もず)は歌が上手く、他の鳥の鳴き声も真似るので、剣を表す柿本人麻呂の柿本人麻呂歌集の歌も他の人の名前を語って柿本人麻呂が創作している可能性もあるのではないかと想像してしまいます。
万葉集に収められている歌の364首も柿本人麻呂歌集から選ばれたものだと言われ、柿本人麻呂が石見の鴨山の岩根を枕にしてという歌は大国主命や、鴨が頭だという事を暗示しているのだと思います。
柿本氏は小野小町の小野氏から分かれた氏族とされるので、小野小町は「鹿」の持統天皇を表しているので、「鹿」の耳から「百舌鳥」が飛び出しても不思議ではないようです。
柿本人麻呂の妻の依羅娘子(よさみのおとめ)はおそらく、大依羅神社で祀られる建豊波豆羅和気(たけとよはずらわけ)の子孫で百済の渡来人なのだと私は思います。
そして、持統天皇の弟である建皇子をモデルとした日本武尊を接着剤として神話の再構築を図り、イエス・キリストの血を引く橘氏を、もう取り合いが起こらないように主要な八氏族に嫁がせたのが八咫鏡(やたのかがみ)で、死を意味する「ロンギヌス槍」が親である大国主命の八千鉾(やちほこ)になり、笠を逆さまにしてすくった三つ巴の水が「聖杯」の生を表していて子を意味するのかもしれません。
仁徳天皇の後妻である八田女王は菱形の角を切った八角形の隅切りで、平等を悟った阿弥陀如来というわけです。
そして、伊賀と甲賀を束ねるのが藤原北家の藤原秀郷(ふじわらひでさと)の佐賀、鍋島氏で、全国の佐藤さんのルーツになります。
伊賀(三重)と甲賀(滋賀)は仁徳天皇の奥さんで、石(勾玉)と鏡になるので、剣が仁徳天皇だという事のようです。
仁徳天皇の鷦鷯(ささぎ)には蘇我倉山田石川麻呂の子孫である菅原道真(すがわらみちざね)を重用して藤原時平(ふじわらときひら)と対立した宇多天皇(うだてんのう)の子孫の佐々木源氏(ささきげんじ)の「笹」(ささ)の意味も含ませているのだと思います。
宇多天皇の皇子である醍醐天皇(だいごてんのう)は母が宮道列子(みやじのれっし)で物部守屋の子孫だとされ、藤原時平と仲が良く、宇多天皇と醍醐天皇は、親子で対立していましたが源光(みなもとひかる)の協力もあって、菅原道真を左遷する事に成功し、同じく宮道列子の子孫であった紫式部によって源光をモチーフに天武天皇の血を排除しようとした平家や藤原式家と、天武天皇とがっちりと結び付いていた藤原北家の血の繋がりを在原業平や、藤原高明など沢山のモデルを盛り込んで比喩として書いた物語が源氏物語だと思います。
百済の渡来人が住んだとされる我孫子(あびこ)という地名は阿彦(あびこ)の事で阿(くま)=熊(くま)の子孫を意味し、依網吾彦(よさみのあびこ)が「鷹」(たか)を仁徳天皇に献上し、鷹狩りが行われるようになります。
百済では「鷹」は「倶知」(くち)と呼ぶそうです。
清少納言(せいしょうなごん)が言った「葉守りの神」が宿るという「柏」(かしわ)であり、紀氏と同族となっていた百済の王族を指すようです。
田の外側を覆う十握剣を噛み砕いた天照大神の口で、深草帝と呼ばれた仁明天皇の母である橘嘉智子の母親が田口氏で、紀氏の末裔だとされます。
仁徳天皇に皇位を譲って自殺したとされる菟道稚郎子は水を括り菊水となる橘の氏族です。
百舌鳥の舌から「口」(くち)を引くと百千鳥(ももちどり)になり、ムクドリの事になります。
持統天皇を表した巨椋池(おぐらいけ)の椋鳥(むくどり)は群れになって飛ぶ鳥で、巨勢(こせ)など人数の多い秦氏を意味していたようです。
聖徳太子と物部守屋が激突した大阪府八尾市の大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)の境内には神妙椋(しんみょうむく)と呼ばれる椋の木があり、木の根元の裂け目の中に聖徳太子の像が祀られていて、椋(持統天皇)が聖徳太子に取って代わられた事を暗示しているのだと思います。
私は聖徳太子のモデルは称徳天皇(しょうとくてんのう)だと思っているのですが、称徳天皇(孝謙天皇)は奈良時代の藤原北家のシンボルで、平安時代に平家を後ろ盾に持つ藤原式家と源氏を後ろ盾に持つ藤原北家の激しい勢力争いがあり、勝利した藤原北家が鎌倉時代を築きます。
鎌は藤原鎌足の鎌であり、称徳天皇の別名の高野天皇(たかのてんのう)の高(鷹)は元々は高山八幡宮(たかやまはちまんぐう)の天武天皇を表す鷹(たか)でしたが、平家と藤原式家によって高野新笠(たかのにいがさ)を新しい笠として百済が鷹を表す事になりました。
古い笠は蘇我倉山田石川麻呂を意味していました。
再び藤原北家が主役に躍り出てからは、天武天皇は金山彦として剣や鏡を表す「金」(かね)として聖神社(ひじりじんじゃ)で祀られるようになります。
一文銭の中央に口の形をした穴が開いていますが、崇神天皇(天智天皇)に仕える四道将軍であり、大国主命になる前の大己貴命(おおあなむじのみこと)は蘇我倉山田石川麻呂を表しているのですが、御所市の大穴持神社(おなじじんじゃ)の「同」(おなじ)であり、「銅」や「桐」の同じ穴の開いた本体を意味するようです。
仁徳天皇がそれに当たるようです。
栃木県は下毛国で天武天皇を、茨城県は藤原鎌足を表すようです。
耳が無くなったり、口が付け加えられたり、入れ替えに応じて変更されていったようです。
丹後の青葉山で当麻皇子(当麻高田氏)が陸耳御笠(くがみみみかさ)という鬼を退治する話や、笠で水を受けて飲んだ笠水神社(うけみずじんじゃ)など、笠に纏わる逸話も多いです。
「笠」(かさ)は山の形で男性のイエス・キリストを表しますが、逆さまにして器にすると女性のマグダラのマリアの「聖杯」の意味になり、「水」が「聖杯」の中身のイエス・キリストの「血」の代わりになります。
「笠鷺」(かささぎ)から金毘羅さんの讃岐(さぬき)の三(さ)を抜くと「笠置」(かさぎ)になり、東大寺の正月堂のある「笠置山」(かさぎやま)は大友皇子(おおとものみこ)が弥勒菩薩が現れた場所だとして目印に「笠を置いた」場所だとされ、「笠」には大友皇子の意味も付加されています。
「笠置山」(かさぎやま)は元々は「鹿鷺山」(かさぎやま)とも書かれて、持統天皇の意味があったのかもしれません。
東大寺のお水取りは「若狭」(わかさ)の神宮寺から始まりますが「和笠」(わかさ)や、持統天皇を表す人魚の肉を食べた八百比丘尼(やおびくに)の「若さ」の意味もありそうです。
八百は八尾で、八百富神社など、八大竜王弁財天の意味もあるようです。
おそらく、野菜を売るお店を八百屋というのも、川幸彦(秦氏)の弁財天の意味があって、アブラナ科の「真菜」(まな)が奈良時代の主食で「真菜を調理する板」の「まな板」の語源にもなり、平安時代以降に持統天皇のシンボルとされたのだと思います。
斎宮の「斎」(さい)も野菜の「菜」(さい)で、「野」(の)に放たれた「兎」(うさぎ)という意味で「野兎」(のと)となったのだと思います。
石川県の「能登」(のと)の「能登姫」(のとひめ)は、「姉倉姫」(あねくらひめ)と結婚するはずだった「伊須流伎彦」(いするぎひこ)を略奪結婚した為、「姉倉姫」に同情した「布倉姫」(ぬのくらひめ)が加勢して「能登姫」に石を投げあう戦争が起こったそうです。
この戦争を止めたのが大国主命で、苧麻(からむし)で五色の旗を作って「手力王彦」(たじからおひこ)ら五人の神様を連れて攻め込んで制圧したそうです。
「姉倉姫」は柿梭(かきひ)の宮で降参して、その後は混乱を引き起こした罰として富山県の呉羽小竹というところに流されて土地の女性達に機織りを教えるように命じられて、「布倉姫」もそれを手伝う事になったそうですが、「能登姫」と「伊須流伎彦」は最後まで抵抗して、浜辺で殺されたとなっています。
石川県の能登比咩神社(のとひめじんじゃ)では、「能登姫」が機織りを人々に教え、苧麻の能登上布(のとじょうふ)の起源となり、それを引き継いだ沼名木入姫(ぬなきいりひめ)が織機を背負って山を越える途中で山賊に遭って織機を海に落としてしまい、これが機具岩(はたごいわ)となったとされています。
沼名木入姫は推古天皇を引き継いだ持統天皇を表していて、岩とは石の塊で、石は勾玉を表します。
大国主命が勾玉の神様なので、翡翠(ヒスイ)の女神である糸魚川の沼名川姫(ぬなかわひめ)に入るという意味かもしれません。
機具岩は、鳥羽の朝日が昇る二見ヶ浦の夫婦岩(めおといわ)とは違い、夕日が沈む夫婦岩で、大きい方の岩が女性で、小さい方の岩が男性を表していると伝えられていて、男女が逆さまになっているようです。
「能登のとと楽、加賀のかか楽」と、能登(のと)は海女の女性、加賀は殿(との)の男性で、能登の方が加賀の上にあり、男女が逆さまになっているというわけです。
京都の町が右京区と左京区が逆さまになっているのは神様と同じく帝が北に座って南を向いているからだとよく説明されますが、本当は鏡に映る左右が反転した世界を再現したものではないかと私は思います。
今の天皇家が太陽の姿を映した八咫鏡の子孫で、月が太陽の光を映して輝く事から大きな鏡の意味を持つのだと思います。
そういう意味でイエス・キリスト(太陽)の姿を映すマグダラのマリア(月)を知る聖地が能登なのかもしれません。
麻は黄麻や、洋麻、マニラ麻など約20種類近くあるようですが、日本では古来から大麻(ヘンプ)、亜麻(リネン)、苧麻(ラミー)の三種類が有名です。
おそらく、天武天皇の時代には大麻が天武天皇、亜麻が持統天皇、苧麻が蘇我倉山田石川麻呂で、天照大神の「天」(あま)とは「亜麻」(あま)を意味していたのだろうと思います。
苧麻(からむし)は「苧麻」(いらくさ)とも呼ばれ、逆さまにすると「桜井」(さくらい)になります。
島根県の櫻井太詔刀命神社(さくらいふとのりとのみことじんじゃ)では藤原氏の祖神の天児屋命(あめのこやねのみこと)が祀られていますが、この神様は、おそらく藤原不比等の母親の遠智娘(おちのいらつめ)で、鏡王女(かがみのおおきみ)を象徴する女性で持統天皇の母親でもあります。
本来は持統天皇を表す「野兎」(のと)が「姉倉姫」だったのを、推古天皇の意味を持つ「能」(の)の字を充てて「能登」(のと)として、天武天皇の「伊須流伎彦」と結婚させる事で毘沙門天(天武天皇)と吉祥天(推古天皇)のペアを作り、持統天皇は皇極天皇の祖母と孫のセットにしてワニの船に乗せたのだと思います。
ワニを表す王仁吉師(わにきし)は儒教を広めた学者で、親孝行の「孝」(こう)という概念を根付かせた立役者です。
「兎」(うさぎ)は月の中で餅(もち)を搗く動物で、ジャータカ物語では「火」に自ら飛び込んで「食料」となり「飢人」(きじん)を助けた自己犠牲の象徴で、持統天皇のもう一つの姿です。
この「能登姫」「姉倉姫」「布倉姫」の話は、推古天皇(吉祥天)、持統天皇(弁財天)、皇極天皇(荼枳尼天)の宗像三女神を象徴する話だと思います。
中身が入れ替わったりするのは、時代、時代で支配者層が変わって、その支配者層の都合によるものだと思われます。
因みに、「真菜」(まな)は本来はユダヤ教の三種の神器の一つ、「マナの壷」の食糧を表す言葉で、「米」(こめ)を表すものでしたが、橘氏の荘園のあった大阪の尼崎市の「猪名寺」(いなでら)は、上にではなく横に伸びるイネ科の「根笹」(ねざさ)が群生する土地になり、イネ科の葦を表す「真菰」(まこも)が大国主命の出雲大社の注連縄の材料になり、「真菜」は金色の「稲」から野の草である「野菜」として青色を象徴するようになります。
「まな板」の「板」は素戔嗚尊の子供の五十猛命(いたけるのみこと)を表し、紀氏の本当の親である忍壁皇子(おさかべおうじ)を指し、甲賀で百済の王族と結び付き、一緒にワニの船を形成していった柿本人麻呂の正体かもしれません。
鷹狩りの代わりに百舌鳥を使った狩りも行われていたようで、百舌鳥は鷹の子供という立ち位置だと考えると謎が解けたような気がします。
万葉集は万葉仮名(まんようがな)で書かれますが、「真仮名」(まがな)とも「真名仮名」(まながな)とも呼ばれます。
漢字の持つ音を使って日本語の音を表記する奈良時代によく見られる表記方法で、「真菜」(まな)と同じ読みの「真名」(まな)は漢字の事で、ここから片仮名(かたかな)、平仮名(ひらがな)が生まれます。
ワニを表す王仁吉師(わにきし)が漢字の教科書でもある千字文(せんじもん)を携えて日本にやって来たので「真名」(まな)には「千」(せん)という意味も付加されたようです。
「千」の更に大きい数である「万」(まん)は天満(てんま)の「満」(まん)で大国主命の直系の菅原道真(すがわらのみちざね)を表すと同時に、「新撰万葉集」(しんせんまんようしゅう)などを万葉仮名で菅原道真に編集させた宇多天皇(うだてんのう)が「笠」(かさ)として頂点に君臨している和笠(わかさ)、つまり、若狭(わかさ)の伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)の「根笹」(ねざさ)です。
猪の背中に生える「熊笹」(くまざさ)の猪笹王(いざさおう)を従える天武天皇と、鹿の背中に生える「篠笹」(しのざさ)の伊佐々王(いざさおう)を従える持統天皇を纏めた伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)で、「歌」(うた)が「和」になって逆さまになった「和歌」(わか)、つまり「若」(わか)という意味が宇多天皇にはあるようです。
万葉集は「益荒男振り」(ますらおぶり)と男性を表し横の線の聖徳太子を意味し、古今和歌集(こきんわかしゅう)は「手弱女振り」(たおやめぶり)と女性を表し縦の線の物部守屋を意味し、物部守屋の子孫の宮道列子(みやじのれっし)の血を引く醍醐天皇(だいごてんのう)を意味します。
宇多天皇までが聖徳太子の時代、醍醐天皇からが物部守屋の時代というわけです。
つまり、ミミズクとミソサザイの交換で男女が逆さまになっていますが、縦の線は物部守屋で、横の線は聖徳太子で、摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうつじ)の十字架を表すという事みたいです。
そして、伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)には、淡路、志摩、若狭の御食国(みけつのくに)を治める御食大神(みけつのおおかみ)というお稲荷さんの意味が付加され、八幡神を意味する応神天皇にイルカは食料だから食べていいとお墨付きを与えます。
応神天皇の元々の名前は誉田別尊(ほむたわけのみこと)で、誉田(ほむた)とは、飛騨(ひだ)や熱田(あつた)など「水が無く」乾燥した田んぼの事で「火」を表し、「火」(イエス・キリスト)を分けた神様という「桜」の意味が元々はあったようです。
木花咲耶姫が燃え盛る炎の中で生んだ、山幸彦(物部氏)、川幸彦(秦氏)、海幸彦(蘇我氏)が「火」から生まれた「贄」(にえ)の食糧神です。
一方の「水」(マグダラのマリア)は宗像三女神の辺津、中津、沖津と干満の「波」を意味します。
「火」を以て「火」を制した草薙剣(くさなぎのつるぎ)の「薙」(なぎ)に対して、「水」であり、「石」(勾玉)である干満を支配する「宝珠」を手に入れたとされる山幸彦(天智天皇)を祀る和狭彦神社(わかさひこじんじゃ)が「波」(なみ)が、伊弉諾(いざなぎ)の「薙」(なぎ)と伊弉冉(いざなみ)の「波」(なみ)を表しているようです。
この「火」(男)と「水」(女)を逆さまにして竹串で貫いたのが柿本人麻呂で、和狭彦神社の下社とされる和狭姫神社(わかさひめじんじゃ)で祀られる豊玉姫(とよたまひめ)は皇極天皇を表す八尋鰐(やひろわに)の神様で、お稲荷さんを意味するので、お正月の鏡餅の串柿の下に敷く「昆布」(こんぶ)が皇極天皇の隠された意味になるようです。
「三つ巴」を表す狂言で浄瑠璃節で演じられる「昆布売」(こぶうり)は若狭の昆布を売っていた行商人が武士に無理やり太刀持ちをさせられて、腹を立てた行商人がその太刀を抜いて脅して、今度は武士に昆布売りをさせるという上下が「太刀」によって逆さまになる事を描いた喜劇です。
「能」は「身体」で縦の線、「浄」は「浄瑠璃」の「心」で横の線、この二つが同じものだと悟るのが猪悟能(ちょごのう)、沙悟浄(さごじょう)を従えた孫悟空(そんごくう)の「空」で「猿楽」になります。
太刀は不思議な名刀を中心にした物語などを立役者が演じる「歌舞伎」(かぶき)です。
この「昆布」が表す黒い布は浄瑠璃の人形を動かす「黒子」(くろこ)の被る頭巾(ずきん)で、「真黒九朗助稲荷」(まっくろくろうすけいなり)という持統天皇の北の「黒狐」(くろこ)を、東の「開運稲荷」、南の「榎本稲荷」、西の「明石稲荷」と共に一つに纏める白狐の「玄徳稲荷」(よしとくいなり)が皇極天皇で、「昆布」の正体です。
安倍晴明の「五芒星」は、鵲森宮(かささぎもりのみや)の「五幸稲荷」(玄徳稲荷)を指すようで、安倍晴明が使う式神(しきがみ)という鬼は元々は藤原式家の伊賀の忍者の「天邪鬼」(あまのじゃく)を意味したのかもしれませんが、聖徳太子によって上下は元に戻されて、代わりに男女が逆さまになって蘆屋道満(あしやどうまん)の「九字」(くじ)が縦四本の杉の木と横五本の竹で編まれた「シガラの木」の「信楽」(しがらき)が甲賀忍者のシンボルとなります。
つまり、「昆布」は陰で演劇を支える功労者の忍者を葉っぱで隠す布で、紀氏の親である大蕤娘(おおぬののいらつめ)を表すようです。
イエス・キリストの血を受けた聖杯(鏡)は3枚あって、遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)、乳娘(ちのいらつめ)なのですが、おそらく、乳娘は孝徳天皇に嫁いで有馬皇子を生んだのではなく、天武天皇に嫁いで忍壁皇子(忍坂皇子)が生まれ、その子孫が紀氏として大阪を拠点として繁栄したのだと思います。
忍壁皇子は皇位を天武天皇と持統天皇の孫である文武天皇に譲って自分は影の功労者になった人物で、藤原氏によって平安時代以降に百済の王族と婚姻関係を結んでいったのだと思います。
葉っぱに隠れて人を化かす狸は甲賀の男性を、狐は伊賀の女性を意味していて、共にイヌ科の動物で狼をシンボルとしたベニヤミン族であるマグダラのマリアの子孫を表していて、葉っぱは天武天皇と持統天皇の草の氏族と忍壁皇子の木の氏族の子孫を意味します。
ベニヤミン族はユダヤ人の最初の王様のサウルが出た氏族で、婚姻関係を結んで王族となったユダ族よりも正統な本家本元の血筋になります。
草も木も 我が大君の国なれば いづくか鬼の すみかなるべき
紀朝雄の詠んだ歌だとされますが、隠忍(おに)が鬼の本来あるべき姿だという事でのようです。
百済(くだら)の王族で、第25代の武寧王(ぶねいおう)の子供とされる第26代の聖王(せいおう)という人物がいます。
聖明王(せいめいおう)とも言います。
日本に仏教を伝えたとされる人物です。
武寧王も、聖王も日本で生まれ育った百済の王族で、欽明天皇(きんめいてんのう)は聖王と、541年に任那(みまな)の復興について協議していましたが、554年(欽明天皇15年)新羅との戦いで聖王は戦死してしまい、それにより、新羅軍は勢いづき、562年に任那は滅ぼされてしまいます。
欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなり、554年に立太子させた渟中倉太珠敷皇子が敏達天皇(びだつてんのう)として即位します。
丁度、この時代に厩戸皇子(うまやどおうじ)は誕生したとされます。
聖徳太子という名前は、没後100年以上を経て、天平勝宝3年(751年)に編纂された「懐風藻」(かいふうそう)が初出とされるので、おそらく、厩戸皇子(うまやどおうじ)に、聖王のイメージが重ねられ、蘇我善徳は、蘇我入鹿として聖徳太子とは別人のように偽装されたというのが真相かもしれません。
こちらは、背中合わせに二つ顔が一つになった二面石と呼ばれる石です。
人間の善と悪の二面性を表していると石とされますが、まるで、聖徳太子と蘇我入鹿のようです。
物部氏と習合させられた蘇我氏という意味にも取れ、「桃より松が好き」と聖徳太子が答えるのも納得がいきます。
用明天皇(ようめいてんのう)の子の厩戸皇子(うまやどおうじ)が聖徳太子に選ばれた理由は、天武天皇の存在が大きいように思います。
書紀では、天武天皇は皇極天皇の子ということが強調されていて、用明天皇の子とされる高向王(たかむこのおう)の子という側面は隠されているように思います。
武内宿禰の子の蘇我石河宿禰(そがのいしかわすくね)という人物がいて、ここから、蘇我、川辺、田中、高向、小治田、桜井、岸田氏の七氏族に分れたとされます。
高向氏(たかむこし)は、三国志で有名な魏(ぎ)の曹操(そうそう)(武帝)の子の文帝の後裔とされ、応神天皇の時代に阿智王(あちおう)と共に渡来した七姓漢人(しちしょうかんじん)の一つとされ、東漢氏(やまとのあやし)の一族とされます。
阿智王が亡くなった後は、東漢氏(やまとのあやし)は蘇我氏の護衛という役目を持つようになり、王仁吉師(わにきし)を祖とする西漢氏(かわちのあやし)=和邇氏は、物部氏と結びつきます。
和邇氏は秦氏を日本に連れて来た葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の子孫で八尋鰐(やひろわに)の皇極天皇を表しているのだと思います。
秦氏と葛城氏は近い間柄という事もあって婚姻関係を結んだ氏族なんだと思います。
東漢氏の物部氏に対して、西漢氏の秦氏で、渡来人の二大勢力の片側です。
この為、片山御祖神社とか片岡神社とか片が付く名前は秦氏を表す名前が多いようです。
滋賀県の「多賀大社」(たがたいしゃ)の「お伊勢参らばお多賀へ参れ。お多賀お伊勢の親じゃもの」とか「お伊勢お多賀の子でござる」とか親子を表す「孝徳」(こうとく)の「縦の線」と、三重県の「多度大社」の(たどたいしゃ)の「お伊勢参らばお多度もかけよ。お多度かけねば片参り」というように夫婦を表す「仁徳」(にんとく)の「横の線」で「十字架」が生まれます。
度には九(苦)がくっついて九州や九度で男性を表し、賀には四(死)がくっついて四国や四郷(しごう)で女性を表します。
和歌山県の九度は甘柿で、正月の縁起物の串柿は四郷(しごう)の渋柿で作られますが、本来であれば縦の長い線や渋柿が男性で横の短い線や甘柿が女性なのが普通だと思うのですが男女の関係が逆さまになっています。
日本の皇室の神功皇后は女性なのに長刀(なぎなた)を振り回して男性的で、日本武尊(やまたたける)は少年で男具那(おぐな)と呼ばれ、女装したりして女性的で、この二つの系統が結ばれたのが王仁(わに)を表す応神天皇で八幡神になります。
男具那(おぐな)は、おそらく小苦菜(おぐな)でキク科の芥子(けし)を意味するのではないかと思います。
小芥子(こけし)も、日本武尊を表していて三重県で足を三重に曲げて亡くなったので足が作られないのが定番になったのだと思います。
芥子は、天武天皇のキク科の蓬(よもぎ)と同じように若葉は食用にもなるようですが、天照大神の麻(あさ)と同じように麻薬でもあり、劇薬でもあるということです。
ただ、応神天皇の子の仁徳天皇が生まれる時に武内宿禰とお互いの鳥を交換しているのは子孫が入れ替わっている事を暗示しているのかもしれません。
武内宿禰は藤原鎌足を象徴していて、聖徳太子の馬の百済の王族と同じ氏族になります。
孝徳天皇の皇子は有馬皇子も、聖徳太子の「馬」を表していて、その子孫が藤白神社で全国の鈴木さんへと繋がっていくようです。
この有馬皇子の母の乳娘(ちのいらつめ)は孝徳天皇に嫁いだのではなく、天武天皇に嫁いで忍壁皇子(おさかべおうじ)が生まれ、その子孫が紀氏だったのを、平安時代の惟喬親王が藤原氏の惟仁親王に政争で敗れたのを切っ掛けに穂積氏(物部氏)、紀氏(秦氏)、田形氏(蘇我氏)と三等分され、紀氏を平群氏と入れ替えたのだと私は思います。
大国主命のいる島根が木(紀)の根っこで親になり、千葉の香取神宮は木の葉っぱでその子孫になります。
水を含む額田(ぬかた)とか八幡(やわた)とか柔らかい田んぼが「雨」(黒馬)を表すように、堅田(かただ)とか星田(ほしだ)とか神田(かんだ)などの堅い干された田んぼは水が無く「晴れ」(白馬)を表すようです。
皇極天皇は最終的にワニの乗り物である金毘羅さんになって西漢氏となります。
書紀に最初に現われる高向氏は、推古16年9月の遣唐使の学生で、聖徳太子が和邇氏の子孫の小野妹子(おののいもこ)と共に選んだとされる高向玄理(たかむこのくろまろ)です。
次に登場するのが、推古天皇が崩御した後、皇位継承者を決める会合で、田村皇子を推す大伴鯨連(おおとものくじらのむらじ)の意見に賛同する四臣として高向宇摩(たかむこのうま)が出て来ます。
息長氏(おきながし)の味方という立場です。
そして最後に、蘇我入鹿が聖徳太子の子の山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を襲撃して、生駒山に逃亡した山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を追討するように命じた高向国押(たかむこのくにおし)です。
その時に、高向国押(たかむこのくにおし)は、自分の役目は皇極天皇を守ることなので、外には出れないと蘇我入鹿の命令を拒否したとされ、ここでも息長氏の味方という立場が強調されます。
しかし、不思議なのは、追討を免れた山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が、何を思ったのか、また生駒山を下り、斑鳩寺(法隆寺)に入って自害したという点です。
普通に考えると不自然な行動なので、おそらく、高向国押(たかむこのくにおし)が、聖徳太子側の人間で、蘇我入鹿側の人間ではなかったと言いたかった為に無理に挿入した逸話なのかもしれません。
妹背(いもせ)という言葉があります。
妹は妹で、背が兄なのですが、夫婦を表す言葉でもあります。
元々は奈良の吉野川挟んで北が背山、南が妹山で、小野篁(おののたかむら)が異母妹に恋をして吉野川を天の川、自分たちを彦星と織姫に見立てて、歌を詠んでアプローチするのですが、そのアプローチの方法が水の水位で、澄んで浅くなれば川を渡れるのに篁が歌を詠むと、妹は背山の影も見えなくなるほど、深く濁って欲しいとアプローチを拒否する歌を返し、最後は心配した親が妹を倉に入れて食事を運ぶのですが、妹は食事も拒否し、餓死して死が二人を分かつという話です。
この水の浅い、深いが、辺津、中津、沖津の宗像三女神で、辺津の浅い方が縁結びで、沖の深い方が縁切りで、古事記と日本書紀で順番が変わるのですが、最終的に辺津が市杵島姫(弁財天)、中津が多岐津姫(吉祥天)、沖津が田心姫(荼枳尼天)になります。
私は妹は持統天皇、背は天武天皇の事だと思っていて、山背大兄皇子も創作された人物で、モデルは天武天皇だと思っています。
毘沙門天が祀られていた佐保山(さほやま)=平城山(ならやま)より北側を山背国(やましろのくに)と呼びましたが、浄瑠璃寺があり、天武天皇の国を意味したようです。
均(なら)されて丘になった平城山は別名を手向山(たむけやま)と呼び、東大寺の手向山八幡宮を表します。
鏡池があり、聖徳太子の和を意味します。
法隆寺の夢殿の厨子の中に隠されていた背中の無い救世観音(くぜかんのん)は、山を降りて法隆寺で自害した山背大兄皇子で、均されて背中が無くなった天武天皇を表しているのだと私は思います。
反対に背中の有る百済観音(くだらかんのん)は桓武天皇を産んだ高野新笠であり、百済の王子であった扶余豊璋(ふよほうしょう)である藤原鎌足=龍田明神になるのだと思います。
悪夢を良い夢に変える夢違観音(ゆめちがいかんのん)は聖徳太子と一緒に筋違道(すじかいみち)=太子道(たいしみち)を歩いた烏駒(くろこま)と、その管理を任された調子丸(ちょうしまる)=調使麻呂(ちょうしまろ)です。
聖徳太子を世に広めた顕真(けんしん)がその子孫であると聖徳太子伝私記(しょうとくたいしでんしき)では語られています。
私は聖徳太子は架空の人物だと思っていますが、調子丸と黒駒は実在していたんだと思います。
それが生きた馬=生駒(いこま)になったのだと思います。
馬の役目は聖徳太子という良い夢を広める役目です。
和邇氏(わにし)はクベーラ(鰐の神様)=多聞天(たもんてん)となって毘沙門天の代わりになるようです。
多くの人の話を聞けた聖徳太子が多聞天だという事です。
調子丸は百済の聖明王(聖王)の子孫だとされます。
我々が聖徳太子と聞いて真っ先に思い浮かべる姿は唐本御影(とうほんみえい)と呼ばれる肖像画ですが、この肖像画は別名を阿佐太子御影(あさたいしみえい)と呼ばれます。
何故、そんな名前で呼ばれているのかというと、阿佐太子の前に現した聖徳太子の姿を肖像画にしたからだそうです。
つまり、聖徳太子の姿を見たのは阿佐太子だけだという事です。
これは、死んで復活したイエス・キリストが弟子の前にだけ姿を現して、その復活したという事実を弟子たちの話を聞いて信じる事が出来るかというキリスト教の構造とよく似ています。
信じる者は救われるという救済の定義をパロディにしたような内容です。
日本の浄土教の阿弥陀如来(トマス如来)の救済は、信じようと信じなかろうと全ての人を救おうという岩(18番)の誓いです。
この阿佐太子は聖明王の孫で、聖徳太子と同時代の人物になります。
調子丸の血筋と同じ人物という事です。
悪夢は往生した駒の往駒(いこま)で、蘇我氏の乗り物の麒麟(きりん)を表すようです。
高向国押(たかむこのくにおし)は、蘇我入鹿が天智天皇に殺された直後、蘇我氏を護衛する役目にあった東漢氏(やまとのあやし)が、天智天皇に復讐することを、無意味であると諭して武装解除を促しています。
東漢氏を束ねる漢王という立場にあるようで、ここでも息長氏の味方ということが強調されています。
高向国押(たかむこのくにおし)とは、皇極天皇の子の漢皇子の別名で、天武天皇と同一人物ではないかと私は思います。
和邇氏(わにし)の祖は天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)と言いますが、天足彦(あまたらしひこ)とは蘇我入鹿の別名の阿毎多利思北孤(あまたりしひこ)を表し、国押人(くにおしひと)とは天武天皇の別名の高向国押(たかむこのくにおし)を表しているのではないかと思えます。
つまり、聖徳太子は、和邇氏(応神天皇)の系列で、蘇我入鹿と、天武天皇の二つの顔を持っているということです。
暗殺された崇峻天皇(すしゅんてんのう)の母で、聖徳太子の祖母になる蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)は、蘇我稲目の娘とされますが、これが本当の娘ではなく、養女か、あるいは嘘の系図で、無理にこの部分を繋いだのではないかという説もあります。
聖徳太子の母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は蘇我氏と物部氏の争乱を避けて丹後(たんご)に避難したとされます。
丹後は橘がシンボルの豊受大神の元伊勢のある国で、天火明命(あめのほあかりのみこと)と日子郎女神(ひこいらつめしん)を祖とする海部氏(あまべし)が社家とされます。
天火明命は、饒速日命(にぎはやひのみこと)の別名で、日子郎女神とは、市杵島姫(いちきしまひめ)の別名です。
そこへ避難したということは、彼女が海部氏(あまべし)の人間ではないかというわけです。
この説だと、物部守屋が蘇我小姉君の子の穴穂部皇子と結んだ理由も、蘇我馬子が崇峻天皇や穴穂部皇子など、同族でありながら滅ぼした理由も納得がいきます。
また、蘇我氏系の系図に聖徳太子を無理に繋いだ理由は、仏教を日本に伝えたのが聖徳太子だということにして、蘇我入鹿は、その子供の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅ぼした悪役で、仏教とは無縁の人物だったと思わせるのが狙いです。
推測の域を出ない話ですが、とても面白い説だと思います。
それでは、橘寺はこれぐらいにして、車で場所を移ろうと思います。
こちらは、「鬼の雪隠」(おにのせっちん)と呼ばれる石です。
宮内庁は欽明天皇のお墓の陪塚(ばいづか)だと治定しているようです。
陪塚とは、親族や、臣下の者や、副葬品などを埋葬する目的で造られる大型の古墳と関連した小型の古墳のようです。
雪隠(せっちん)とはトイレの事で、この近くにもう一つある「鬼の俎板」(おにのまないた)とセットになっていて、鬼が旅人を霧で迷わせて俎板で調理をして、食べた後に雪隠で用を足したのだという事から付けられた名前だそうです。
「雪隠」(せっちん)の由来は雪隠寺というお寺が中国にあって、トイレの側に青椿(せいちん)が植えてあり、トイレをその葉が覆い隠していたので「せいちん」が訛って「せっちん」になったとか、諸説あるようです。
紀貫之(きのつらゆき)の幼名が阿古糞麻呂(あこのくそまろ)で、官位は低かったようですが古今和歌集の撰者にも選ばれた三十六歌仙の一人とされます。
彼が土佐守に任ぜられた時には60歳を超えていたそうですが、土佐国から平安京に戻るまでの55日間を女性に仮託する形で書かれた「土佐日記」は、後の「紫式部日記」や「更級日記」などの女流文学に影響を与えた作品だとされます。
男性でありながら女性として日記を書いた事からオカマだったのではと噂される人物です。
「真菜」(まな)の調理が、忍壁皇子の「俎板」から始まり、紀貫之の「雪隠」で男女が逆さまになって終わるという事なのかもしれません。
持統天皇を表すヒメタタライスズヒメは母の遠智娘を表すセヤタタラヒメが川の上に立てた川屋(かわや)で用を足そうとした時に川上から流れてきた大物主命の化身した丹塗矢(にぬりや)に陰部を突かれて妊娠して産んだ子供だとされます。
これは、川上から流れてきた「布都御魂」(ふつのみたま)を包んだ洗濯物の「布」と構図は同じで皇極天皇で包まれた持統天皇の「鈴鹿」(すずか)の「鈴」(すず)のオマージュなのかもしれません。
雪隠は雪で隠すと書きますが、天武天皇と持統天皇のセットが、白髭明神(藤原鎌足)と菊理媛(持統天皇)のセットとして、天武天皇と藤原鎌足が入れ替わっていて、白山信仰の白は源氏のシンボルとなります。
そして、白狼の御食大神(みけつのおおかみ)が聖徳太子の飼い犬の「雪丸」(ゆきまる)になるようです。
こちらは、「鬼の俎」(おにのまないた)と呼ばれる石です。
伊奢沙和気大神(いざさわけおおかみ)や、伊弉諾(いざなぎ)や伊弉冉(いざなみ)の伊弉(いざ)は勇魚(いさなうお)と言って、イエス・キリストを表す鯨(くじら)を意味します。
イルカはその小型のものを指し、生物学上はクジラとイルカの違いはないようです。
大が男性、小を女性と考える平安時代の認識で考えるとイルカはマグダラのマリアのシンボルで人魚を表したのかもしれません。
つまり、伊奢沙和気大神がイルカは食べていいと言ったのは、人魚を食べていいと言ったのと同じで、人魚の肉を食べて不老不死になったとされる若狭の八百比丘尼(やおびくに)の伝承とも重なります。
古事記に書かれているクジラを神武天皇に御馳走した弟猾(おとうかし)と、神武天皇に敵対して血原(千原)となった兄猾(えうかし)は、前者が醍醐天皇(だいごてんのう)で、後者が宇多天皇(うだてんのう)を表しているのだと私は思います。
醍醐天皇を表しているのが物部守屋で、宇多天皇を表しているのが聖徳太子で、二つそろったのが十字架の逢坂(おうさか)で、大きな逆さまだった大逆(おおさか)が、52段の悟りの段階を表す大坂(おおさか)となるようです。
「坂」(さか)は「笠」(かさ)の逆さ言葉でイエス・キリストではないマグダラのマリアの「聖杯」を意味します。
古事記の兄猾(えうかし)、弟猾(おとうかし)の話も後世の人が創り上げたフィクションで、現実の自然とは全然関係のないものなので、どうでもいいことなのですが、平安時代の人が何を考えてそういった物語を創ったのかが分かると興味がより深くなって、別のものを考察する時の参考にもなります。
源平合戦の時代、関門海峡(かんもんかいきょう)で、東に源氏の船、西に平家の船が対峙していて、総大将の平清盛(たいらのきよもり)の子の宗盛(むねもり)が西に向かう千尾のイルカの大群を目撃し、陰陽師の安倍晴信(あべのはるのぶ)に占わせたところ、イルカが折り返して東に向かえば平家の勝ち、そのまま西に向かえば源氏の勝ちだと告げました。
結果は、そのままイルカは西に向かい平家は滅んだと伝えられます。
関門海峡(かんもんかいきょう)は東と西の潮の流れが1日に4回と目まぐるしく変わる場所だとされ、イルカが折り返して東に向かう可能性もあったようです。
しかし、イルカが泳いで来た方が負けるという占いも占いですが、事実を根底にしたフィクションなので仕方ないのかもしれません。
イルカが幸運を運ぶのではなく、不幸を運ぶ象徴で、蘇我入鹿(そがのいるか)のように負けの象徴とされたのかもしれません。
この関門海峡の真下が、「洞海湾」(くきのうみ)と「企救郡」(きくぐん)があり、苦海(くかい)と浄土(じょうど)を表す剣の「北斗七星」の七星で、洞海湾が白髭明神のくの字に曲がった「柄」(え)の熊(くま)の三星(三重)、企救郡が菊理媛の「合」(ごう)の洲(しま)の四星(滋賀)となります。
柄杓(ひしゃく)の「合」(器)の向きが東であったのに、平家の占いで西に向きが変わり、柄杓の向きも西に変わったという事で、天照大神が東(伊勢)から西(滋賀)に変わります。
おそらく、「藤原式家」(ふじわらしきけ)によって誕生した「平家」は、天武天皇の都である奈良を「南都」(なんと)と呼び、「合」が西向きの「南斗六星」(なんとろくせい)から「合」が東向きの「北斗七星」へと変えて都を京都に移しました。
ところが、天武天皇の氏族と婚姻関係を結んでズブズブの関係だった「藤原北家」(ふじわらほっけ)は天武天皇を追い出す事は自分たちが追い出される事になるので、天武天皇の子孫の武蔵七党の頭に高句麗の王族の高麗若光(こまのじゃこう)を置いて、「藤原北家」によって誕生した「源氏」と共に武蔵七党を挙兵させ「平家」を打たせて、「合」が東向きだった「北斗七星」が再び、「合」が西向きの「南斗六星」へと戻った事をイルカの逸話で表したのだと私は思います。
モズの草茎(くさぐき)は持統天皇の「菊」(きく)ではなく、天武天皇の「茎」(くき)の方にモズが隠れている事を表していて、片聞け吾妹(わぎも)は、持統天皇の話ばかりを聞くのではなく天武天皇の話も聞けという「藤原北家」の主張が含まれているのだと思います。
我々が知っている古事記の伊弉諾命(いざなぎのみこと)の左目から天照大神が生まれたという神話も、実は改変された結果で、元々は右目が天照大神だったのかもしれません。
日本武尊は猪の祟りで三重に足が折れ曲がって立てなくなりましたが、和気清麻呂は猪の助けで企救郡の足立山(あだちやま)で温泉に浸かり足が治りました。
苦海は醜足(四郷)、浄土は苦土(九度)となり、死(四)と苦(九)を貫いた奇(くし)の柿の剣が草薙剣を表しているようです。
和気清麻呂を祀る護王神社(ごおうじんじゃ)は京都御所の西側にあるので、菊の枝の場合も、柄杓の場合も、頭が西向きは変わらないようです。
弘法大師 空海(こうぼうたいし くうかい)の幼名を佐伯真魚(さえきまお)と言います。
巨大な鯨(くじら)は自らが密教僧となって和歌を菅原道真(すがわらのみちざね)に編集させた「益荒男振り」(ますらおぶり)の宇多天皇(うだてんのう)を表し、真魚(まお)は真魚(まな)とも読まれる事から、密教は鯨の心臓であったのかもしれません。
伝教大師 最澄(でんぎょうたいし さいちょう)の天台宗から浄土宗と禅宗が生まれますが、浄土宗は草や木の「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)を拠り所として、天武天皇と持統天皇の子孫の鬼と忍びの人達を導き、八咫鏡によって八分割された天皇家の主要な武家には聖徳太子(慧思)の跡継ぎとして禅宗(達磨大師)で導き、「手弱女振り」(たおやめぶり)の醍醐天皇(だいごてんのう)を表す八岐大蛇(やまたのおろち)は、天台宗の白龍大神と名前を変え、浄土宗と禅宗の両翼(羽)を持って藤原氏が空高く舞い上がらせたのかもしれません。
羽を持つ蛇は西洋ではドラゴンと呼ばれて悪魔の象徴とされますが、南米などではケツァルコアトル(ククルカン)と呼ばれ、カトリックが悪魔と呼んだマグダラのマリアの子孫が鳳凰の本当の姿なのかもしれません。
京都の先斗町(ぽんとちょう)や河原町(かわらまち)は、先の柄杓(斗)、つまり、後の柄杓(斗)の北斗七星より以前の鵲(かささぎ)の南都十字星を表し、河原(かわら)は賽(さい)の河原(かわら)など、鬼瓦(おにがわら)が生まれる前は、瓦(かわら)で、イエス・キリストの笠(かさ)を表す象徴だったのだと思われます。
宮崎県の羽山積神社(はやまつみじんじゃ)の別当寺であった現在は廃寺になっている端山寺(はやまでら)の縁起には、昔、「健磐竜王」(たけいわりゅうおう)と「沙羯羅竜王」(しゃがらりゅうおう)の二匹の龍がいて、「健磐竜王」は狗留孫仏(くるそんぶつ)に請うて「大般若経」を石卒塔婆に書し、「沙羯羅竜王」は観音菩薩に請うて「法華経」を石卒塔婆に書したといいます。
熊本県の阿蘇山の阿蘇神社では健磐龍命(たけいわたつのみこと)が祀られ、九州を治める神様だとされる事から「健磐竜王」を表していて、天武天皇を表しているものと思われます。
羽生(はにゅう)という名前も、九州では羽生(はぶ)と読む事が多く、奄美諸島が最も多い生息地である毒蛇の波布(はぶ)を表していて、平家落人伝説の地と言われる奄美大島は、資盛(すけもり)、行盛(ゆきもり)、有盛(ありもり)の平家三将が落ち延びた場所とされ、瀬戸内町加計古麻島の諸鈍、龍郷町戸口、名瀬の浦上とそれぞれが移り住んだ場所に神社が建てられています。
羽生氏は清和源氏と桓武平氏の二つの系統があるとされていて、桓武平氏の系統は千葉氏など源氏(源頼朝)の側に付いた氏族が名乗っているようです。
平家を滅ぼした源氏が天武天皇の子孫の武蔵七党を従えていたので、武蔵七党が虎(天武天皇)に生えた羽という意味があるのかもしれません。
四国は四国三十三観音霊場がある事から、おそらく、「沙羯羅竜王」で、天武天皇(てんむてんのう)とペアになるのは誰かと考えると持統天皇(じとうてんのう)だと考えたくなりますが、推古天皇である能登姫(のとひめ)と天武天皇である伊須流岐比古(いするぎひこ)が夫婦となって、伊須流岐比古と結婚するはずだった持統天皇の姉倉姫(あねくらひめ)と妹の皇極天皇の布倉姫(ぬのくらひめ)がペアとなって争ったとされる石川県の民話のように、最終的には毘沙門天(天武天皇)と吉祥天(推古天皇)が夫婦になって、弁財天(持統天皇)と荼枳尼天(皇極天皇)がペアになり、吉祥天である推古天皇(すいこてんのう)が「沙羯羅竜王」になったのかもしれません。
この「健磐竜王」と「沙羯羅竜王」の対比が、「大般若経」と「法華経」とされる事から、大乗仏教の二大流派の「中観派」(ちゅうがんは)と「唯識派」(ゆいしきは)の対比、もしくは三重県の「真言宗」と滋賀県の「天台宗」の対比にも当てはめられそうです。
「中観派」と「唯識派」の一番の相違点は、「心」(魂)を「空」だとするかどうかという点で、私は「心」も例外なく「空」だとする「中観派」に同意しますが、弥勒菩薩(みろくぼさつ)を信じて「神」との「心」の統合を目指す「唯識派」は「心」だけは残して置きたかったみたいで、「心」の輪廻転生(りんねてんしょう)を信じるバラモン教やヒンドゥー教、天国と地獄を信じる一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教など、「心」が有る事が前提の他宗教の世界観にも協調した形なのだろうと思います。
私はノーベル生理学・医学賞を受賞したアレキシス・カレルが「人間 この未知なるもの」で語られているように、この世にはウイルスのように、命を持つ生物と持たない無生物の中間形態のようなものも存在していて、研究すればするほど命の有無の垣根があやふやになるようです。
「心」(魂)という言葉の定義そのものが全ての人が一寸の狂いもなく一致している可能性は低く、「空」という概念は「有」と「無」が分けられない事を表しているので「中観派」も「唯識派」も見ている立ち位置が違うだけで、本来は分けて是非を問う必要もないのかもしれません。
二元論の西洋哲学が陥りやすい「卵が先か鶏(にわとり)が先か」のジレンマは、卵という一つの言葉の中に「鶏に成長する前の卵」と「鶏が産んだ卵」の両方の意味が含まれている為に、無限ループに陥りやすく、答えが分かりにくくなっています。
先祖を辿っていくと生命の始まりはバクテリアなどの細菌に行きつくので、卵とも鶏とも似ても似つかない形状になりますし、辛うじて鶏に似た雉(きじ)の状態でも、どこからどこまでが雉で、どこからどこまでが鶏なのか個人によって見解が変わって来ると思います。
また、先祖と言っても、父と母にはそれぞれの先祖がいて、それぞれ進化の過程や速度が変わっていると考えると簡単に答えが出せる問題ではないような気がします。
しかし、一元論の東洋哲学だと簡単で、卵も鶏も同じもので切り離す事が出来ない「空」だと答える事が出来ます。
聖徳太子が著したとされる三経義疏(さんきょうぎしょ)の法華経、勝鬘経(しょうまんきょう)、維摩経(ゆいまきょう)は、どれも平等を掲げる天台宗の布石となるような内容のお経ですが、維摩経の維摩居士(ゆいまこじ)が「不二」(ふに)を問われて一黙したのも、「卵が先か鶏が先か」と同じように不確実な言葉で語る事自体がナンセンスで、意味のない事だという事のようです。
法華経の内容は、仏教の真理が誰もに平等に作用する「一乗妙法」(いちじょうみょうほう)、仏教の真理が過去のものではなく、未来永劫、続いて人々を教化していく「久遠実成」(くおんじつじょう)、自分だけが救済されるのではなく、他者を救済する伝導を表している「菩薩行道」(ぼさつぎょうどう)の三つが核になる部分で、上座部仏教とも対立するのではなく、統合して一つになる事が大乗仏教の理想としてあるようです。
宇多天皇が退位後に出家して法皇になり、過去にも例の無かった天皇の位にあったものが密教の最高位の阿闍梨(あじゃり)となって、親政を開始して、菅原道真を抜擢して、藤原時平を追い出そうとしました。
その反動から、藤原氏が密教の真言宗ではなく、天台宗に深く結び付いていく切っ掛けになったのだと思います。
天台宗が仏教の本筋で、正統性を主張する為に聖徳太子という人物が必要になったのだと思います。
天台宗の始祖である智顗(ちぎ)の師であった慧思(えし)が生まれ変わったのが聖徳太子だという「唐大和上東征伝」(とうだいわじょうとうせいでん)に書かれた伝説も藤原北家が淡海三船(おうみのみふね)に働き掛けて創り出したものだと私は思います。
滋賀の法華経と三重の大般若経は、四星の「合」と三星の「柄」の西向きの南斗六星です。
平家物語に壇ノ浦合戦(だんのうらがっせん)では海面に負けた平家の赤旗が漂っていて、嵐で吹き散った竜田川(たつたがわ)の紅葉のようだと表現されています。
紅葉は中国では楓(かえで)と呼び、黄帝と死闘を繰り広げた蚩尤(しゆう)の血の色を受けて赤く染まるのだと言われます。
蚩尤は剣を造る製鉄の神で、西戎(せいじゅう)の子孫である秦氏や魏(ぎ)の曹氏、東夷(とうい)の子孫である藤原鎌足の中臣氏など、鬼の氏族の親に当たります。
源平盛衰記(げんぺいせいすいき)で、海の底には竜宮城があり、草薙剣を抱いて海に沈んだ安徳天皇(あんとくてんのう)や二位の尼(にいのあま)など、平家一門は共に八岐大蛇(やまたのおろち)の兄弟で竜神なのだと語られますが、柿の串柿には柿本人麻呂と共に赤い龍とされた平家の意味も含まれているのかもしれません。
建礼門院(けんれいもんいん)が須磨国明石浦で見た夢に、安徳天皇や二位の尼と再会し、ここはどこかと尋ねると竜宮城だと答え、竜宮城にも苦はあるのかと尋ねると龍畜経(りゅうちくきょう)に書かれていると答えたそうです。
龍畜経(りゅうちくきょう)とは龍も動物と同じ畜生で苦しむ存在だとされ、法華経の提婆達多品(だいばだったぼん)の別名だとも言われます。
死を享受する「鏡」と、苦を享受する「剣」が内宮、外宮を一つにした串柿の串(苦死)になるようです。
提婆達多品には善女龍王(推古天皇)によって龍も苦から解き放たれ、成仏出来る事が説かれています。
須磨国明石浦は源氏物語の明石君のいた場所で、物部守屋(八岐大蛇)の血を引く宮道列子(みやじのれっし)を象徴しているのだと思います。
八岐大蛇の血は宮道列子を通して醍醐天皇によって受け継がれ皇室へと流れています。
私は物部守屋の正体は大友皇子なのだと思います。
嵯峨天皇(さがてんのう)の居住地であった京都の嵐山(あらしやま)は、愛宕山(推古天皇)から吹く西風で持統天皇の桜の花も、平家の紅葉も吹き散らされる事から五十嵐(いがらし)の意味を持つのかもしれません。
風は素戔嗚尊のシンボルであり、イエス・キリストの象徴でもあり、聖徳太子なのだと思います。
法隆寺の聖徳太子の年忌法要の「お会式」(おえしき)では、174羽の鳥を模した餅を竹串で刺して飾る高さ3メートルほどの2基の「大立山」(おおたてやま)と呼ばれる供物や、米粉と一緒に柿を油で揚げる「柿揚げ」など、珍しい供物が並びます。
餅はモチノキから鳥を捕まえるのに使用されていたトリモチを表していて、竹串に鳥を刺すのは、秦氏が鳳凰をシンボルとしていたので、モズが贄を茨に刺すように秦氏を聖徳太子が捉えて、藤原鎌足の茨に突き刺した事を表しているのかもしれません。
174羽の鳥を模した餅は、燕(つばめ)や鳳凰(ほうおう)だとされます。
燕は一夫一妻で、相手が生きている限りは同じ個体同士でつがいになるようで、夫婦円満の「愛」(あい)を表し、鳳凰は不老不死の象徴なので長寿の「老」(おい)を表すので、「相生の松」(あいおいのまつ)になるのかもしれません。
「相生」(あいおい)は「愛老」(あいおい)とも書かれ、播磨(はりま)の高砂(たかさご)の横の線の「愛」と、摂津(せっつ)の住吉(すみよし)の縦の線の「老」のペアを表していて、「北斗七星」や「大黒天」(蘇我倉山田石川麻呂)を表す「黒松」と、「南斗六星」や「恵比寿」(藤原鎌足)を表す「赤松」の南北の線が同根だという事を表した言葉のようです。
「高砂」は燕の子安貝(こやすがい)と言われる「タカラガイ」が砕けて砂になった「真砂」(まさご)の砂丘の事です。
山幸彦(やまさちひこ)である天智天皇が海神(わだつみのかみ)である藤原鎌足の助けで、海の干満を支配する「波宝珠」(なみほうじゅ)の「潮満玉」(しおみつたま)と、「潮涸玉」(しおふるたま)の二つの玉を手に入れて、海幸彦(うみさちひこ)の天武天皇を懲らしめて山幸彦に仕える事を約束させた伝承地が、宮崎県の青島神社で、青島は「高砂」で出来た島で、青島神社の前の浜辺でタカラガイを見付けて本宮に奉納すると願い事が叶うと言われます。
皇極天皇を意味する八尋鰐(やひろわに)の豊玉姫(とよたまひめ)と天智天皇を意味する山幸彦が、聖母マリアとイエス・キリストのように新しいペアとなった事を象徴する島だともされます。
この山幸彦が手に入れたとされる「波宝珠」の二つの玉は神功皇后が三韓出兵の時に北九州の志賀海神社(しかうみじんじゃ)で阿曇磯良(あずみのいそら)から借り受けたものとされます。
阿曇氏(あずみし)は安曇氏(あずみし)とも書かれ、元々は海幸彦の天武天皇の子孫を意味しましたが、入れ墨の風習のあった海人(あま)である越(えつ)の渡来系氏族と混血させたのではないかと私は思います。
天武天皇を養育したとされる凡海氏(おおあまし)は、越や燕(えん)の氏族だったのか、或いは、混血をさせた後にそのような物語を加えて、元々、関係が深かったように工作をしたのか、本当の所は謎ですが、古事記では素戔嗚尊に海を統治させようとしたら、母親の居る根堅州国(ねのかたすくに)に行きたいと言った話などを考えると後者の方が可能性が高いのかもしれません。
根堅州国はあの世の事だと言われますが、島根県の出雲大社の大国主命の意味もあり、大国主命(阿倍御主人)の中に素戔嗚尊(毘沙門天)が吸収された事を暗示しているように私は感じます。
日本書紀の記述で住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が履中天皇に反旗を翻した際に阿曇浜子(あずみのはまこ)が協力しようとした為、目の縁に入れ墨をする刑罰を受け、「阿曇目」(あずみめ)と呼ばれるようになったとあるように、住吉(すみのえ)を元々は墨江(すみのえ)と書いたのも、越の入れ墨文化が根底にあり、藤原鎌足が海を司る海神(わたつみのかみ)として安曇氏を支配した事を象徴しているのだと私は思います。
何故、目の縁に入れ墨なのかというと、天武天皇や、その子孫の聖武天皇などは眼病平癒が目的で薬師如来(イエス・キリスト)を信仰していたからだと思われます。
薬師如来がおられる浄瑠璃浄土(じょうるりじょうど)の「瑠璃」(るり)はアフガニスタンのラピスラズリの事ですが「涙」を意味し、シルクロードの重要な交易品として取引されたのだと思います。
閻魔大王が持つ噓を見抜く「浄玻璃(じょうはり)の鏡」の「玻璃」(はり)は水晶の事で、播磨(はりま)の「播」(はり)は「種を蒔く」という意味ですが「玻璃を磨く」という意味も含ませているのだと思います。
そして、「浄玻璃の鏡」が仁徳天皇の後妻である八田皇女(やたのひめみこ)、つまり、天照大神の御神体の「八咫鏡」(やたのかがみ)という訳です。
水晶が採れる山梨県の昇仙峡(しょうせんきょう)は水源信仰の中心地で金櫻神社(かなざくらじんじゃ)の御神木の黄色い花の「鬱金桜」(うこんざくら)を象徴しているようです。
閻魔大王とは八岐大蛇とされた物部守屋の事のようで、おそらく大友皇子の事を意味していて、「鬱金桜」は金山彦(天武天皇)と金山姫(持統天皇)が切っても切れない関係を表しているのだと思います。
相撲の土俵中央の地面に供える鎮め物の洗米、塩、昆布、勝ち栗、寿留女(するめ)、そして最後に長寿を意味する榧(かや)の実ですが、それぞれ、蘇我倉山田石川麻呂、藤原鎌足、皇極天皇、天武天皇、持統天皇の五人が榧の実で一つに繋がれている事を表しているようです。
榧の実は天武天皇を表す深草少将(ふかくさしょうしょう)と持統天皇を表す小野小町(おののこまち)の愛を表す食べ物ですが、榧の木稲荷とお稲荷さんの意味もあるので、イエス・キリストとマグダラのマリアの子孫を表す意味で入れたのかもしれません。
眼の話に戻りますが、鳥はカタツムリの殻や、ベリー類の果実などからカルシウムを摂取しますが、昆虫しか食べない海辺を生息地とする燕はカルシウム不足に陥りやすく、眼病を患う燕も多く存在するようです。
その為、燕の親は雛にカルシウムを補う目的で貝殻を巣に持ち帰る習性があり、それがタカラガイの伝説を生んだのかもしれません。
「亀の甲(こう)より年の劫(こう)」や、「烏賊(いか)の甲より年の功」など、甲賀の甲には「木の兄」(きのえ)という紀氏の忍壁皇子(おさかべおうじ)の意味以外に「貝殻」の意味もあるようです。
「亀」は推古天皇を表し、「烏賊」は持統天皇を表す言葉ですが、「烏賊の甲」は特に「カトルボーン」(貝殻が退化した骨のようなもの)と言って鳥の大好物になります。
鳥には嘴(くちばし)しかなくて歯がないので貝殻や石などを飲み込んで、胃袋の中で食べ物をすり潰す歯の役割をさせたりもします。
滋賀県の「志賀」(しが)は元々は持統天皇の「鹿」(しか)を意味したようですが、マグダラのマリアのベニヤミン族のシンボルである「狼」(おおかみ)の「歯牙」(しが)をその上に被せ、藤原鎌足が尊敬していた太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)の「子牙」(しが)の意味も含ませたのだと思います。
「勾玉」の形は、人間の魂の形や、胎児の形など色々な説があるとされますが、一番有力視されているのが動物の「歯牙説」(しがせつ)で、天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)も、お互いの持ち物を交換しあって「歯」で噛んで吹き出した事から「歯」(は)が重要視されたのだと思います。
「志賀」(しが)の「志」(し)は生死の「死」(し)以外に「隅立て四つ目紋」(すみたてよつめもん)の「四隅」、つまり東西南北の「四神」(ししん)の意味や、「生老病死」の四つの苦しみを解決する「四諦」(したい)の意味なども含ませているのだと思います。
「狼の歯牙」をネックレスとした騎馬民族の「高句麗」(こうくり)が「狼」をトーテムとしたトルコのトュルク系民族と「鹿」をトーテムとしたツングース系民族の混血だとされるので、高句麗の王族の高麗若光(こまじゃっこう)に天武天皇を嫁がせたのが武蔵七党だと思います。
持統天皇を表す宗像氏(むなかたし)は胸(むね)と肩(かた)に入れ墨が入っていたようです。
海に潜る海人(あま)が入れ墨をしたのは鼻が利くサメが墨の臭いを嫌うので、魔除けとして入れたのではないかと思います。
海神(わたつみ)は、本来は海人津見(あまつみ)が変化して和田津見(わたつみ)になったもので、綿津見(わたつみ)とも書かれ、泡のように柔らかい綿花の神様、柔田(やわた)から秦氏の「絹」に代わる衣料として八幡(やわた)の意味があるのかもしれません。
菅原道真が編集したとされる類聚国史(るいじゅこくし)には三河国に漂着した崑崙人(こんろんじん)が綿の種を持ち込み、そこから紀伊、阿波、讃岐、伊予、土佐、大宰府管内に植えさせたとあり、平安時代に綿の生産が始まり、天照大神や密教と関係の深い和歌山や四国がその中心だったことが分かります。
崑崙人はインド人だという説とベトナム人だという説がありますが、私は後者の越と呼ばれた崑崙国(こんろんこく)のベトナムの方が可能性が高いのではないかと思います。
愛知県の西尾市にある天竹神社(てんじくじんじゃ)では、この崑崙人が綿を伝えたことから新波陀神(にいはたがみ)としてお祀りし、綿打ちと呼ばれる儀式などを行う綿祖祭を開催するそうです。
新潟県の新潟(にいがた)の潟(がた)は亀が生息する沼地の事ですが、秦氏の波陀(はた)の意味があり、藍色(あいいろ)の縞模様(しまもよう)が伝統の綿織物の亀田織(かめだおり)が平家の玄武と青龍の黒と青の縞模様を綿で表現しているのだと思います。
伊勢の伊も、綿を意味する伊織(いおり)が平家のシンボルだったのかもしれません。
高砂神社のご祭神が大己貴命だとされるのは燕の意味があった持統天皇から、祖父である蘇我倉山田石川麻呂に「愛」の担当が変わって、出雲大社が縁結びの神様になった為だと思われます。
東西を表す「高砂」は燕が雛に与える「タカラガイ」が粉々になって砂になったようです。
私は平家を生み出した物部氏と百済の友情の証の石上神宮が「高砂」を知る上では重要なのではないかと思います。
かぐや姫が石上麻呂に要求した「燕の子安貝」(つばめのこやすがい)はタカラガイだと言われますが、厳密には「八丈宝貝」(はちじょうたからがい)と呼ばれる黒地に金色の斑点がある大型のタカラガイで、燕が咥えて飛ぶには少し無理があるように思える貝になります。
紀伊半島より南の海に生息する貝ですが、名前に八丈(はちじょう)と付くのは、八丈島(はちじょうじま)が「イシバ様」と呼ばれる石神信仰のある土地で、優婆夷宝明神社(うばいほうめいじんじゃ)と呼ばれる神社に、事代主命(ことしろぬしのみこと)の妃である八十八重姫(やそやえひめ)と、二神の御子神だとされる古宝丸(こほうまる)が祀られていて、八十八重姫を優婆夷大神(うばいおおかみ)、古宝丸を宝明神(ほうめいのかみ)と呼ぶそうです。
事代主命は恵比寿さんの事なので藤原鎌足、優婆夷大神は天照大神の皇極天皇、宝明神はその孫の持統天皇で、皇極天皇と持統天皇の孫子ペアのようです。
でも、八十八重姫はおそらく八重垣を造る持統天皇で、古宝丸は推古天皇だと思われるので、推古天皇と持統天皇のペアの意味も含まれているのだと思います。
優婆夷大神には天武天皇を意味する許志伎命(こしきのみこと)という夫がいたようで、天武天皇の長男の忍壁皇子(おさかべおうじ)が紀氏の本当の祖で、木(紀)を敷く「木敷」(こしき)が越の木の「越木」(こしき)になり、金毘羅さんのワニの船、法華経の船、源氏の船を表したのかもしれません。
昔は男女が一緒に住むと海神(わだつみのかみ)の祟りに遭うという言い伝えがあった為に、女性は八丈島、男性は青ヶ島に分かれて住んでいたそうですが、流人の源為朝(みなもとのためとも)が八丈島で結婚し子供を生んでも祟りが起きなかったので、以降は改められたと言われます。
これは平家が天武天皇と持統天皇の男女の仲を引き裂いていたのを源氏が元に戻したという意味で、それが石の玉で、夫婦に子を加えた勾玉の「三つ巴紋」なのだと思います。
源氏の中でも源為朝が選ばれた理由は、源氏の勢力を強める為に九州に派遣され、阿蘇の豪族の娘の白縫姫(しらぬいひめ)と結婚して、九州を統治して鎮西八郎(ちんぜいはちろう)と呼ばれたからで、九州は建磐竜王(たけいわりゅうおう)の土地で天武天皇の子孫が開拓した土地なので、深い関係がある人物だと言えます。
「白縫」(しらぬい)は九州の不審火の「不知火」(しらぬい)で、「肥の国」(ひのくに)の語源にもなった「火の魂」(ひのたま)で「ほむら宝珠」と同じ意味を持つものだと私は思います。
「ほむら宝珠」は「火」と「水」が結び付いて生まれる「風」(空気)の事で、「イエス・キリスト」と「マグダラのマリア」の子供の「サラ」を意味していて、お稲荷さん(豊受大神)の「空」を表す宝珠になります。
桜の女神の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が産んだ山幸彦、川幸彦、海幸彦の意味があり、イエス・キリストの子孫を意味します。
平家の家紋である「アゲハ蝶」は歳をとった者を若返らせる「常世神」(とこよのかみ)とされ、中国の遼東にあった燕国(えんこく)の公孫淵(こうそんえん)の子孫の赤染氏(あかぞめし)が丹波立杭焼(たんばたちくいやき)に朱砂を混ぜて丹の焼き物を造ったり、着物の「茜染め」(あかねぞめ)の技術を教えたりして、赤をシンボルとした平家に持て囃され、燕(つばめ)は子育ての象徴で持統天皇(じとうてんのう)、鳳凰(ほうおう)は極楽浄土の極楽鳥として皇極天皇(こうぎょくてんのう)の意味があったのではないかと思います。
藤原宮子が藤原不比等の養子になった逸話に燕が長い髪の毛を咥えて藤原不比等の庭にやって来て、それを見た不比等が、こんな立派な髪の毛の持ち主なら相当な美人に違いないと家来に探させて藤原宮子に辿り着き養子に迎えたとされます。
道成寺に残る宮子姫伝記には九海士の村長に娘が生まれたが髪の毛が全く生えず、娘の母が海の底で光輝く小さな観音像を見付けて、持ち帰って毎日拝んでいたら娘に髪が生え始めて村人から髪長姫と呼ばれる美少女に成長したとされています。
記紀に伝えられる狭穂彦(さほひこ)と狭穂姫(さほひこ)の物語は、私は天武天皇と持統天皇の揶揄したものだと思っていて、この持統天皇の狭穂姫が、髪の毛を剃ってその髪の毛でかつらを作って被り、衣服もお酒で腐らせて解けるようにして、垂仁天皇の使いの追ってが狭穂姫を捕えようとしても、全て解け落ちて狭穂彦の居る稲城(いなき)に逃げ込むのを止める事が出来ず、狭穂彦と共に狭穂姫も火で焼かれて亡くなったとされています。
持統天皇は髪を失った方、藤原宮子は髪を得た方という対比の鍵が燕や観音菩薩にあるのだと思います。
燕国は、秦の始皇帝が中国を統一する前は燕、趙、斉、韓、魏、秦、楚の戦国七雄と呼ばれた国の一つでした。
燕は銅鐸(どうたく)や明刀銭(めいとうせん)、多鈕鏡(たちゅうきょう)など、秦が鉄器で中国を制圧する前の青銅器の文明です。
安珍清姫(あんちんきよひめ)の鐘で熊野権現の安珍を閉じ込めて清姫が蛇になって焼き殺してしまうという伝承は、藤原宮子の青銅器の銅鐸に安珍(天武天皇)を閉じ込めてしまうという意味だと思います。
私は天武天皇は魏の文帝の末裔だと思っているので、楽浪郡(らくろうぐん)と名前の変わった燕国を魏が支配していましたが、高句麗がこれを滅ぼし、楽浪郡から分かれた帯方郡(たいほうぐん)は卑弥呼と魏の仲介役として繋がりが深かった国ですが、こちらは韓に滅ぼされます。
おそらく、滅ぼされた後の遺民が日本にもやって来てたのだと思います。
余談ですが三国志の張飛(ちょうひ)の「燕人張飛ここにあり!」も燕国の出身を誇りにしていた台詞なのだと思います。
奈良の枕詞の「青丹よし」(あおによし)は秦の鉄器ではない青銅器の文明だという意味だと思います。
「太陽」(日)を表す「燕」と「月」を表す「趙」の二国間で使用されたのが明刀銭で刀の形をした青銅の貨幣で「日」と「月」の統一を意味する「明」の字が彫られている事が特徴です。
つまり、貨幣(金)が太陽と月を統一した子供だという事です。
星であり、金星の虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)が聖武天皇を表していたのだと私は思います。
聖武天皇が即位するまで中継ぎで元明天皇が即位しますが、和同開珎(わどうかいちん)の青銅の貨幣が鋳造されます。
聖徳太子を導いた金人(きんじん)とは持統天皇とその一族で、貨幣が円(えん)を結ぶ和(わ)だという事です。
女王卑弥呼の時代の遺跡からは、この銅鐸や明刀銭や多鈕鏡が出土していて、燕国と邪馬台国は深い繋がりがあった事が分かっています。
楽浪郡は魏(ぎ)に反旗を翻して呉(ご)と同盟を結び、魏は呉の背後にある倭国と帯方郡を通じて交渉して卑弥呼を倭王と認めて同盟を組み、蜀の背後にある大月氏国(クシャーナ朝)とも同盟を組んで、敵国の呉と蜀を挟み撃ちにする形を整えます。
この時代の魏は力を持っていたので、天武天皇が日本でどういう立ち位置にいたかは想像が出来ると思います。
皇極天皇の先祖の一人である荏名津比売(えなつひめ)がおそらく燕国の人だと思われます。
斐太後風土記(ひだごふどき)では「荏名(えな)は高山より行くに守屋と稲荷の社前を過ぎて江名子に入る村の口」と、荏名神社が説明されています。
荏名神社が荏胡麻(えごま)の栽培地であったようで、荏名(えな)は、おそらく荏菜(えな)で荏胡麻を表していたのだと思います。
京都の山崎に油座として栄えた離宮八幡宮(りぐうはちまんぐう)があって荏胡麻油の聖地ですが、平安時代に清和天皇が九州の宇佐八幡宮をこの地に遷宮させたのが始まりとされています。
八幡宮で忘れられそうになるのが筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)で、神功皇后が応神天皇を産んだ時の胞衣(えな)を箱に入れて印に松を植えた事から「箱松」(はこまつ)と呼ばれ、これが転じて「筥崎」(はこざき)になったと言われています。
藤原宮子は「松宮」という蔵書印を使用し、宮子が崩御した中宮を平城京の北の松林宮に比定する説があるように、おそらく、藤原宮子が荏胡麻や燕のシンボルだったものが、隠されて持統天皇と共に皇極天皇に吸収されたのだと思います。
木を削る大工道具の「鉋」(かんな)ですが、堅い木を削る際には刃は「ツバメ鋼」が良いとされ、鉋台はひび割れないように乾性油の「荏胡麻油」を塗るのが良いとされます。
「鉋」(かんな)は「神奈」(かんな)で「金」(かな)を意味し、現在は皇極天皇の事ですが、元々は聖徳太子を導いた金人(きんじん)で持統天皇を意味したのだと思います。
「神無月」(かんなづき)は「十月」を意味しますが、奈良時代には「神菜」(かんな)の荏胡麻だったのかもしれません。
菜の花のアブラナ科の「真菜」(まな)の持統天皇の四弁の花が伊勢神宮の唐菱紋で、どちらも共通するのは火を灯す油の野菜だという事です。
因みに「十一月」は十一面観音菩薩で十一の顔を持つとされる荒神さんですが、「霜月」(しもづき)とも呼ばれます。
賈島(かとう)の「十年一剣を磨く」とか南総里見八犬伝の「抜けば玉散る氷の刃」とか「霜刃」(そうじん)とか「十一」が「士」(さむらい)という字になるからか剣にまつわる諺とかが多いように感じます。
寒さの厳しさを剣の鋭さに例えた諺のようです。
また、「神還月」(かみかえりづき)とも言うので、イエス・キリストの復活を表しているのかもしれません。
因みに「荏胡麻」は食べると十年若返ると言われ、そこから「十年」という異名もあります。
「十年一昔」(じゅうねんひとむかし)の諺を思い出します。
聖徳太子の話に戻りますが、聖徳太子のお会式で飾られる「大立山」は秦氏が信仰した「智恵の樹」と「生命の樹」の「棕櫚」(しゅろ)を表していて、平家と源氏を統一する意味を持っているのかもしれません。
住吉の方は藤原鎌足を表す住吉三神と本来は持統天皇(じとうてんのう)の意味を持っていた神功皇后(じんぐうこうごう)のペアで、白山信仰の藤原鎌足の白髭明神(しらひげみょうじん)と持統天皇の菊理姫(くくりひめ)のペアと同じ関係を意味するようです。
住吉三神は「薬師如来」(天武天皇)を表す底筒男命(そこつつのおのみこと)、「阿弥陀如来」(皇極天皇)を表す中筒男命(なかつつのおのみこと)、「大日如来」(蘇我倉山田石川麻呂)を表す上筒男命(うわつつのおのみこと)だとされますが、これだと東の「毘沙門天」と西の「弁財天」を支配する北の「三面大黒天」になるので、「密教」や平家の時代の「北斗七星」の意味になります。
源氏の時代は南の「観音菩薩」が東の「薬師如来」と西の「阿弥陀如来」を支配する熊野三山の「南斗六星」にまた戻った事を象徴するようで、南は三波で、東と西は南の「恵比寿」が握り、北の「大黒天」は「相生の松」で南の「恵比寿」と一つに繋がり矛盾が解消されます。
潮の干満は生と死を表しているそうで、住吉三神は生死を司る神様だとされます。
「海」の「和田津見」(わたつみ)と「山」の「大山津見」(おおやまつみ)が「恵比寿」と「大黒天」というわけです。
幕末の攘夷論者(じょういろんしゃ)に影響を与えた復古神道(ふっこしんとう)の平田篤胤(ひらたあつたね)の弟子の本田親徳(ほんだちかあつ)が提唱した本田霊学(ほんだれいがく)の一霊四魂説(いちれいしこんせつ)では北が「荒魂」(あらたま)、南が「和魂」(にぎたま)、東が「幸魂」(さきたま)、西が「奇魂」(くしたま)で、「幸魂」と「奇魂」が合わさったものが「和魂」とされるので、「和魂」が聖徳太子であり、源氏の南斗六星や、「水」を表す三つ巴紋の意味になるようです。
埼玉県(さいたまけん)の語源である前玉神社(さきたまじんじゃ)の「前玉」(さきたま)は「幸魂」(さきたま)と同じく「東」を意味し、元々は天武天皇を表していたのですが、平家が滅ぼされてからは藤原北家が取って代わってその位置を引き継いだのだと思います。
沖縄県の琉球神道(りゅうきゅうしんとう)では弁財天を本地仏とする東方の理想郷の「儀来・河内」(ニライ・カナイ)や「君真物」(キンマモン)、伊弉冉命(いざなみのみこと)を意味する女神の阿摩美姑(あまみこ)と伊弉諾命(いざなぎのみこと)を意味する男神の志仁礼久(しにれく)の創造神話がありますが、古事記と反対で女神の「阿摩美姑」だけで神々を生んだとされ、常世神が信仰された平家の時代の神道が生き残っている姿なのかもしれません。
沖縄に多い「比嘉」(ひが)という苗字は、天皇に歯向かって太陽の方角を向いた隼人(天武天皇)を表す九州の「日向」(ひむか)が訛ったものだとされ、「日」(ひ)を「比」(ひ)と書くのは、「日本」(にほん)を「二本」(にほん)が同じ読み方をするように日本書紀で「伊予の二名の島」(いよのふたなのしま)と呼ばれた「四国」と同じで、天岩戸に隠れた天照大神の「推古天皇」を「大宜都比売」(おおげつひめ)と呼び、天岩戸から出て来た天照大神の「持統天皇」を「愛比売」(えひめ)と呼んで、「伊」(い)と「予」(よ)の二神に分かれる事を表し、その二神にそれぞれの男女のペアの「建依別」(たけいわけ)と「飯依比古」(いいひこ)がいて四神だとした事で、東の昇る太陽と、西の沈む太陽を比べる二つの太陽として表現したのかもしれません。
ただ、推古天皇を表す「伊」は男性が上の香川で、女性が下の徳島になっているのに対して、持統天皇を表す「予」は女性が上の愛媛で、男性が下の高知と男女の位置が逆さまになっていて、「予」を見た場合は平家の信仰した弁財天の持統天皇が上で天武天皇が下だというのは合っているのですが、「伊」を見た場合は推古天皇の夫として東の上の香川の「飯依比古」の位置に収まっているのは、おそらく敏達天皇(びだつてんのう)になるので、「大国主命」の意味を持ちます。
大国主命は蘇我倉山田石川麻呂の意味を持つ大己貴命(おおあなむじのみこと)が素戔嗚尊の婿養子になってからの名前で、石上を表す物部氏の名前です。
しかし、これは香川と徳島を伊州と呼び、愛媛と高知を予州として、東西で四国を縦に分けているからで、愛媛と香川が伊州で、高知と徳島が予州だと考えると、南北で四国を横に分ける形になり、香川県の甲山寺(こうやまじ)の岩窟の毘沙門天像など、香川を表す「飯依比古」が天武天皇(毘沙門天)を表わしていて、高知を表す「建依別」が蘇我倉山田石川麻呂(大黒天)を表している事になります。
左上右下(さじょううげ)で考えると、左(持統天皇の愛媛)上(天武天皇の香川)右(蘇我倉山田石川麻呂の高知)下(推古天皇の徳島)という形になります。
どちらにせよ、南に望める住吉三神と神功皇后のペアがその両方の太陽を包み込む「海」を表していて、東の昇る太陽と、西の沈む太陽の二つが結局は「空」で同じものだという形で矛盾を解消したようです。
「重陽の宴」(ちょうようのえん)の意味を伝える能の菊慈童(きくじどう)は魏の文帝と観音菩薩の功徳に感謝をして舞を披露しますが、私は天武天皇の正体は魏の文帝の末裔だと思っているので、この組み合わせは天武天皇(魏の文帝)と推古天皇(観音菩薩)の組み合わせでもあり、藤原北家の望んだ最終的な組み合わせだと思います。
多賀大社の「三つ巴紋」は回転する事で宗像三女神の矛盾が消滅するようです。
周の穆王(ぼくおう)の枕をまたいで流刑にされた菊慈童が菊の葉に経文を書いて長寿を得た観音菩薩の2句は
「慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)」
だとされます。
観音菩薩は慈悲の眼で衆生を観ていて、幸せの集まった無限の海のようだという意味のようです。
周の穆王(ぼくおう)は藤原鎌足を表しているのだと私は思います。
「福聚海無量」の「聚」(じゅ)は集まるという意味ですが、「福寿海無量」と「寿」(じゅ)という文字を使われる場合もあるようで、「恵美寿」(えびす)の海は「恵美」(笑み)の「寿」(ことぶき)と喜びを表すようです。
だけど、楽しみの中にも枕をまたぐように、枕詞を疎かにしたり、南に足を向けて寝るのは良くないという意味だと思います。
「とほかみえみため」 刀の神様、イエス様笑いたまえです。
私は橘の秘密は紀氏にあると思っています。
紀氏が謎の氏族とされているのは、天武天皇と持統天皇の奈良時代の子孫を隠す為に別の系図にすり替えられているからだと思います。
何故、隠す必要があったのかというと、おそらく、イエス・キリストの血を引く蘇我倉山田石川麻呂の3人の娘の1人である乳娘(ちのいらつめ)が橘を表し、奈良時代は天智天皇ではなく天武天皇の子孫がイエス・キリストの血を引く正統な後継者だったからだと私は思います。
だから乳娘が孝徳天皇に嫁いで有馬皇子を産んだという話は天武天皇と乳娘の関係を切り離す為の作り話で、本当は天武天皇の妃となって産んだのが忍壁皇子(おさかべおうじ)で、その子孫が紀氏だったのだと思います。
天武天皇と持統天皇の草の氏族は伊賀となり、紀氏の木の氏族は甲賀となって聖徳太子の乗り物の黒駒と結び付いていくようです。
杉原斎入(すぎはらさいにゅう)が馬杉(うますぎ)と名前を変えるのも、聖徳太子が杉に黒駒を結び付けた事が由来だとされ、神功皇后の杉がお稲荷さんを中心とする宗像三女神の新しい形だと示唆しているのだと思います。
栃木県の宇都宮(うつのみや)は渦の宮(うずのみや)で、源氏の三つ巴の中心を意味するようです。
栃木(とちぎ)とは橡(とち)の木で、馬栗(うまぐり)と呼ばれる馬の飼料とされたドングリの仲間です。
フランスのマロングラッセのマロンは元々は橡の実の事で、後に栗を意味するようになったようです。
栗は天武天皇の意味があるので、馬栗を乗り物となる忍壁皇子に例えたのかもしれません。
馬は群馬県で持統天皇を表し、馬栗は栃木県で天武天皇を表すようです。
天武天皇系の奈良時代から、天智天皇系の平安時代に橋渡しをしたのが第49代天皇の光仁天皇(こうにんてんのう)ですが、母親が栃木を意味する紀橡姫(きのとちひめ)で天智天皇が忍壁皇子を通して天武天皇を敷くという意味があるようです。
忍壁皇子は高松塚古墳の被葬者だと言われていますが、高松の意味は高松市の金毘羅宮で、ワニの刀を意味しているようです。
愛と老いを繋ぐ松であり、皇室を乗せた船の竜骨(レバノン杉)となります。
紀橡姫の母親は道氏で、白山(菊理姫)を囲む、越前、美濃、加賀の禅定道(ぜんじょうどう)を意味する氏族で三馬場(さんばば)の氏族と言えそうです。
馬場(ばば)は傾斜が厳しくて、ここから先は馬では進めないという場所に馬を繋ぎとめて、そこからは自分の足だけで登る修行の起点の意味もあり、禅と関係の深い言葉と言えそうです。
伊弉冉命(いざなみのみこと)が火の神様である迦具土神(かぐつちのかみ)を産んで火傷をして病気になった時に産んだ6人の神様がいるのですが、嘔吐物からは金山彦(かなやまひこ)と金山姫(かなやまひめ)、小便からは弥都波能売神(みずはのめのかみ)と和久産巣日神(わくむすびのかみ)、大便からは埴安彦(はにやすひこ)と埴安姫(はにやすひめ)が生まれたとされていて、崇高な神様がどうして汚物から生まれるような話を、わざわざ神話の中に入れたのかが疑問でした。
でも、聖徳太子の訳した維摩経(ゆいまきょう)の観衆生品(かんしゅじょうほん)の天女散華(てんにょさんげ)の話を知った時に、古事記の作者の意図が少し分かりました。
聖と俗、美と醜、浄と不浄、これらは「空」で実際は分けられないものなのに、それに気が付かずに汚物を嫌う心が実は一番汚れているという事を表していて、禅で有名な「侘び寂び」(わびさび)とは、聖と俗を対立させない和の精神だと思います。
馬場を越えて白山の頂上を目指す厳しい禅の修業僧は、六波羅蜜(ろくはらみつ)を成就する為の六度万行(ろくどまんぎょう)に挑み、菩薩となります。
伊弉冉命は道敷大神(ちしきのおおかみ)と呼ばれ、白山を囲む越前(弥都波能売神)、美濃(金山彦)、加賀(埴安彦)に源平合戦に関わった氏族を割り振り、「水」(北)、「金」(西)、「土」(中)の、三面大黒天(摩多羅神)である亀虎(阿倍御主人)を表したのだと思います。
鎌倉幕府が禅と深く結び付いていったのは白山信仰からだと言えそうです。
人々から崇敬を集める聖なる聖徳太子ですが、私は道鏡との不倫を噂された俗なる称徳天皇(しょうとくてんのう)がモデルだと思っていて、両者が同じ人物だと分かる鍵が聖徳太子の訳した法華経、勝鬘経、維摩経などの中にも散りばめられていて、作者から読者への余興としての挑戦状のような意味合いも感じてしまいます。
西洋哲学では善と悪を分けて考える二元論が根底にあるので、神様の定義も有限で相対的な人間の対象として無限で絶対的な存在だと仮定されます。
和を以て貴しとなすの「和」(わ)とは喧嘩をせずに仲良くするという単純なものではなく、宇宙の全てを包み込む「縁」(えん)であり、仏教の悟りの境地でもある「空」(くう)だと言えます。
善と悪が決して分けられない東洋哲学の一元論であり、神と人間の統合は、生と死の統合でもあります。
ユダヤ教の生命の樹の根っこが、邪悪(死)の樹と繋がっていると言われる事や、吉祥天(ラクシュミー)が不吉祥天(アラクシュミー)とセットになっていると言われる事は、西洋哲学のように生と死を分けて考えているからで、本来は一つでそれを知った人には邪悪の樹も不吉祥天も消えて光だけが残るのだと思います。
人間は死ぬ時には臨死体験で光に包まれてあらゆる苦痛から離れた世界を体験すると言われます。
人は神様から呼ばれたのであの世へと旅立つのだと希望を抱きます。
これは、決して間違った認識ではなく、悟りの境地と同じで、神様と人間が一つに繋がった状態で、そこには全ての苦しみも悩みもない光の世界が待っているのではないかと私は思います。
科学者は脳内麻薬が分泌されて、そのような幻覚を見るのだと説明されるかもしれませんが、そのような仕組みが身体に備わっているのは、死を前にして苦しむ必要がなくなったから本来の姿へと解放されるのだと思います。
生きている時に悟りを開けなくても、死んだ時には全ての人が平等に悟りを体験するのではないでしょうか。
鏡餅の一番上に飾られる柑橘類は、ミカンでもダイダイでもなく、本来は橘で、生と死を統合する如意宝珠の意味が隠されているのだと思います。
天武・持統天皇陵です。
天武天皇は、真っ赤に燃える鳳凰(ほうおう)の天皇と言えます。
聖徳太子は、それを覆い隠すような存在かもしれません。
また、狭穂彦王(さほひこおう)も、私は天武天皇の異名だと思っているので、このお墓は、狭穂彦王(さほひこおう)を愛した狭穂姫(さほひめ)が眠るお墓でもあるわけです。
三を保つ三保(さほ)の王、そして后です。
高台にあって、とても景色の良い場所です。
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