天智天皇陵

大丸百貨店の山科店の催事で来ていて、近くにある天智天皇陵にやって来ました。

私は清和天皇の清和源氏の家系なので、天智天皇もご先祖様になります。

山科は、京都駅と、滋賀県大津駅の間にあり、興福寺の前身だった山階寺(やましなでら)のあった土地で、藤原氏の出身地と言えます。

山科のすぐ隣に伏見稲荷大社(豊受大神)や、弘法大師空海の東寺があり、とても神聖な場所だと私は思います。

天智天皇は、物部氏系、百済系の天皇で、新羅によって滅ぼされた高句麗や、百済の遺民400余人を受け入れ、隣の大津に住まわせたそうです。

高句麗や、百済を追い出した新羅の人々が朝鮮半島を統一し、李氏朝鮮の時代には仏教弾圧を行って、仏像を尽く破壊した為に、朝鮮半島には仏像がほとんど存在せず、

日本では、密教僧で、沢山の仏像を推奨した空海が朝廷から大師の号を賜り、仏教と神道が共存していくこととなります。

天智天皇は、乙巳の変というクーデターで有名な天皇ですが、それによって、朝鮮半島や、中国とは別の道を歩むことになりました。

天智天皇と天武天皇は、父親が違う兄弟ですが、母親は同じ皇極天皇になります。

物部氏を象徴する天智天皇(龍)に対して、蘇我氏を象徴する天武天皇は、本来、太陽の(鳥)がシンボルなのですが、蘇我氏滅亡と共に、大伴氏の(虎)に置き換えられ、秦氏を象徴する皇極天皇(鹿)から生まれたという事で、共に(鹿)の児だということが強調されました。

つまり、蘇我氏は太陽ではなく、秦氏と物部氏が太陽だと変更されたわけです。

豊受大神(虎)の元伊勢と言われる籠神社(このじんじゃ)の籠(かご)とは「鹿児」(かご)という意味が含まれているようです。

紅葉が綺麗です。

門が見えます。

道も舗装されていて、お洒落な神社や、お寺のような雰囲気です。

中に入りました。

数ある古墳の中で被葬者が確実だと言われているのが、奈良の明日香村の天武・持統天皇陵と、この天智天皇陵になります。

和邇氏(わにし)の祖の天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)は「足」を象徴し、太陽を象徴する「日足紋」(ひあしもん)であり、「足す」という意味で、「縁結び」の「秦氏」の神様と思われます。

天武天皇は「蘇我氏」を象徴する人物でしたが、孫である長屋王の代で藤原四兄弟に敗れ、「秦氏」に組み込まれたものと思われます。

それに対して天智天皇は「手」を象徴する神様だと思われます。

手を使うものは「楽器を弾く」や、「弓を引く」など「引く」という言葉が使われます。

楽器=「蘇我氏」を「引く」=音(乙姫)を鳴らす「玉手臣」(たまてのおみ)が藤原氏という意味で、弓=「秦氏」を「引く」=的を射る「的臣」(いくはのおみ)が大伴氏になり、共に「縁切り」の神様と思われます。

 

浦島太郎は翁の藤原鎌足で玉手箱(蘇我昌子)を手に入れて不老不死を諦め、秦伊呂具(はたのいろぐ)が餅を的にして弓を射たのが豊受大神(お稲荷さん)の始まりです。

 

北葛城(現在の葛城市)の「葦田宿禰」(あしだのすくね)=推古天皇の後継者が「玉手臣」の「天智天皇」(藤原氏)に、南葛城(現在の御所市)の「玉田宿禰」(たまだのすくね)=蘇我馬子の後継者が「的臣」の「皇極天皇」(巨勢氏)になるようです。

 

天岩戸を直接開いた皇祖神の天手力男神(あめのたじからおのかみ)と呼ばれる神様がいますが、私は「手の力」を象徴する天智天皇の別名だと思っています。

 

天智天皇の諱(いみな)は葛城(かつらぎ)だと言われます。

着きました。

とても静かな雰囲気です。

運命を力尽くで変えた王者の墓という感じがします…

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