梅の花です。
今回は、仕事で高槻の松坂屋さんに来ています。
JR高槻の南側に松坂屋さんはあるのですが、北側には上宮天満宮という神社があります。
イノシシは、よく推古天皇(すいこてんのう)に例えられます。
このお墓は「日足紋」(ひあしもん)という車輪の軸を「足」に例えた車持氏の塚かもしれません。
太陽神を信仰した秦氏の氏族で、方角の「方」(ほう)という漢字の一番北側の玄武(げんぶ)の位置に当たる「、」(てん)が秦氏を表します。
「方」の「、」を除いた漢字が「万」(よろず)という漢字で、全てという意味になります。
「、」を滅ぼした「万」は天神様を象徴するようです。
「天満」(てんま)の「満」(まん)とは「満ち足りる」という意味で、「万」と同じく容器がいっぱいになって、これ以上、上がないという状態を表します。
天満宮(てんまんぐう)と言うと、朝廷に祟りをなした菅原道真(すがわらのみちざね)が、まず頭に浮かびます。
菅原氏は、当麻蹴速(たいまのけはや)を相撲で倒した野見宿禰(のみのすくね)を祖とする「土師氏」(はじし)の氏族です。
桓武天皇の時代に、「大江」(おおえ)、「菅原」(すがわら)、「秋篠」(あきしの)の姓(かばね)を賜り、そこから三氏族に分かれていきます。
野見宿禰(のみのすくね)の祖が、天穂日命(あめのほひのみこと)で、饒速日命(にぎはやひのみこと)の父である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の弟だとされ、物部氏とは親戚になります。
当麻蹴速(たいまのけはや)とは蘇我氏を象徴する素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別名です。
蚤(のみ)は体は小さいけれど「足」の力が強く当麻蹴速を蹴り殺したそうです。
大物主命を象徴する物部氏に対して、土師氏は蘇我氏と習合されて少彦名神(すくなひこなのかみ)を象徴します。
少彦名神は、大物主命の荒御魂とも言われ、荒神(こうじん)という別名もあります。
道教では炎帝神農(えんていしんのう)と呼ばれ、「麦」を日本に齎した「牛」の神様として有名です。
野身神社(のみじんじゃ)と書かれています。
字は違いますが野見宿禰(のみのすくね)の事です。
この神様が、天神様と呼ばれるのは物部氏と同じく天気に関係した出雲族の祖神だからだと思います。
「天」という観念は、仏教とも関わりが深いようです。
古代インドの宗教観では、人間は死ぬと別の人間に生まれ変わり、その生まれ変わる場所が、
1.「地獄」(じごく) ・・・・ アチュート(不可触民)
2.「餓鬼」(がき) ・・・・ シュードラ(奴隷)
3.「畜生」(ちくしょう) ・・・・ ヴァイシャ(市民)
4.「人間」(にんげん) ・・・・ クシャトリヤ(貴族)
5.「天」 (てん) ・・・・ バラモン(司祭)
の五つの世界があるとされました。
これをバラモン教では「五趣」(ごしゅ)と呼び、生まれ変わりの繰り返しを「輪廻」(りんね)と呼びます。
例えば、ヴァイシャで生まれると一生ヴァイシャで、その身分に不平を言わず善行を積むと来世では一つ上の位のクシャトリヤに生まれ変わる事が出来て、一度、シュードラまで落ちてしまうと、二度と上の位には生まれ変われないそうです。
世界の創造主とされるブラフマー(梵天)(ぼんてん)の息子のマヌが述べたとされる「マヌ法典」によると、「聖典ヴェーダを読む声にシュードラが不届きにも耳を傾けた場合、熱く解けた鉛を耳に流し込んで罰すべし」と記されていて、シュードラが差別の対象でした。
しかし、西暦100年頃から、さらにその下に人間ではない人々としてアチュートという位が出来て、シュードラの差別は穏やかなものへとなっていきます。
この身分制度は、カースト制度と呼ばれ、アチュートはカーストにも入れない存在として、不遇な扱いを受けます。
お釈迦様は、こういった身分制度に強く反対していたようです。
お釈迦様の悟られた哲学の核心は、善行で生まれ変わる先が決まるのではなく、過去も現在もなく、生も死もない、只、一つの世界があるという「無分別智」(むふんべつち)という思想で、実質的に「輪廻」を否定したものだと私は思うのですが、はっきりと「輪廻は無い」と言葉に出して否定しませんでした。
何故、はっきりと言わなかったのか。
それは、あの世に行った事がない人間に、あの世の事など分かるはずがないからです。
お釈迦様は、バラモンの僧に、死後の事を聞かれた際、死後の事より、生きていく上で何が大切かを問えと、その質問の無意味さを「毒矢の喩え」を使って諭しました。
毒矢が刺さった人間は、毒を抜いて傷を治療する事が先決で、その毒矢が何処から飛んできたかなどという事は、今、考える事ではないという事です。
そういった意味で、お釈迦様は、自分の分からない領域の事は、一切、口に出して言いませんでした。
しかし、それが、仏教が変質していく原因にもなったと私は思います。
お釈迦様の弟子達は、お釈迦様の語らなかったバラモン教の世界観を取り入れます。
そして、お釈迦様が口に出して言わなかった神様や、死後の世界とも仏教は徐々に結びついていきます。
初期仏教では、バラモン教と同じ「五趣」を基本としましたが、大乗仏教になってからは、ペルシアの最高神アフラ・マズターのいる世界を「阿修羅」(あしゅら)と呼び、「畜生」と「人間」の間に加え、四番目の世界とします。
その為、「人間」を五番目、「天」を六番目として、全部で六つの世界となり、「六道」(ろくどう)と呼びました。
「六道」の頂上にある「天」は、さらに六つの「天」に分けられ、まだ欲に囚われている世界として、「六欲天」(ろくよくてん)と呼ぶようになります。
下から、
1.「四大王衆天」(しだいおうしゅてん)
2.「忉利天」(とうりてん)
3.「夜摩天(やまてん)
4.「兜率天」(とそつてん)
5.「化楽天」(けらくてん)
6.「他化自在天」(たけじざいてん)の六つです。
「天満」(てんま)という言葉は、「六欲天」の第四番目の天部である「兜率天」(とそつてん)の「知足」(ちた)から来ているものと思われます。
「兜率天」は、欲情に沈むこともなく、浮ついた心もなく、色・声・香・味・触の五欲の楽において喜足の心を生じ、弥勒などの「補処の菩薩」の止住する処だとされます。
要するに、天部の中間に位置し、熱くもなく温くもなく良い湯加減だということです。
「知足」(ちた)は自分の境遇や身分に「満足」(まんぞく)する道教の言葉、「知足安分」(ちそくあんぶん)と同じ意味合いがあります。
「満足を知っているものは貧しいといえども富んでいて、満足を知らないものは富んでいるといえども貧しい」という意味で、心のあり方で幸せが決まるということです。
お釈迦様はこの「兜率天」(とそつてん)から、六つの牙を持つ白像に変化して、摩耶夫人(マーヤーふじん)の胎内に宿られたとされ、弥勒菩薩(みろくぼさつ)も、また、「兜率天」から地上に降って衆生を救うとされます。
「兜率天」が「六欲天」(ろくよくてん)の最上界でないのは、王位という地位を捨てて衆生を救いたいと出家されたお釈迦様の慈悲の心の表れと、お釈迦様の説かれた「中道」(ちゅうどう)の思想を反映させているように思います。
「欲」にも、「禁欲」にも偏らない、端っこより、真ん中が良いよという思想です。
インドではカースト制度と呼ばれる身分制度があり、お釈迦様の説いた「平等」の思想は、バラモンなど、差別する側からすると都合が悪く、受け入れられなかったようです。
その為、インドではカースト制度を肯定するバラモン教が主となり、ヒンドゥー教という宗教が発展します。
古代インドのバラモン教の聖典「ヴェーダ」は時代順に第一次から第四次に分けられ、その第四次に属するものをウパニシャッド(奥義書)と呼び、「輪廻」(りんね)を繰り返す主体の「我」(アートマン)は不滅だとする「梵我一如」(ぼんがいちにょ)という思想が書かれています。
内容は「無分別智」(むふんべつち)と似ているのですが、お釈迦様の到達した悟りの境地では、「輪廻」する「霊魂」(アートマン)の存在は無く、これを「空」(くう)と呼び、たどり着いた答えは「無我」(むが)でした。
そして、世界の繋がりを「輪廻」ではなく、「縁」(えん)という理論で説明されました。
お釈迦様の弟子達は、「梵我一如」と、「無我」の思想を区別する為に、「六欲天」を含む「六道」を「欲界」(よくかい)と呼び、その上に、新たに「色界」(しきかい)という別世界を創ります。
「色界」(しきかい)は、宗派によって天の数は微妙に違うのですが、全部で18天あり、ブラフマー(梵天)と呼ばれるヒンドゥー教の創造神を始まりに置き、頂上には、世界の終末に世界を破壊するシヴァ(大自在天)と呼ばれる神様を置きます。
下から、
1. 「梵衆天」(ぼんしゅうてん)
2. 「梵輔天」(ぼんほてん) 初禅
3. 「大梵天」(だいぼんてん)
4. 「少光天」 (しょうこうてん)
5. 「無量光天」(むりょうこうてん) 二禅
6. 「光音天」 (こうおんてん)
7. 「少浄天」 (しょうじょうてん)
8. 「無量浄天」(むりょうじょうてん) 三禅
9. 「遍照天」 (へんじょうてん)
10.「無雲天」 (むうんてん)
11.「福生天」 (ふくしょうてん)
12.「無想天」 (むそうてん)
13.「広果天」 (こうかてん)
14.「無煩天」 (むぼんてん) 四禅
15.「無熱天」 (むねつてん)
16.「善現天」 (ぜんげんてん)
17.「善見天」 (ぜんけんてん)
18.「色究竟天」(しきくきょうてん)
です。
最後の18天の「色究竟天」(しきくきょうてん)に大自在天(だいじざいてん)が住んでいるとされます。
書き出すだけでも大変ですが、禅定(ぜんじょう)の四段階を表していて「受」(じゅ)を捨てるプロセスだとされます。
「受」(じゅ)は「感覚」を表している仏教用語で、「受」に勝てば苦しみを捨てられると言われます。
「色」(しき)は「肉体」などの物質を表します。
しかし、お釈迦様は、「色」は「無常」(むじょう)だと言われました。
「無常」とは永遠の存在ではないという事です。
「色界」(しきかい)は「欲界」(よくかい)から解脱した世界ですが、まだ肉体の「色」に囚われている世界だとされ、「我」に囚われている「梵我一如」を表した世界だと思われます。
そして、「色界」の上に如来(にょらい)という「無我」の境地にたどり着いた仏教オリジナルの仏がいる「無色界」(むしきかい)という世界を創り上げます。
ヒンドゥー教(バラモン教)より、お釈迦様の思想の方が上だということを表したかったのではないかと思います。
「無色界」(むしきかい)は全部で4天あると言われます。
下から
1.空無辺処(くうむへんしょ)
2.識無辺処(しきむへんしょ)
3.無所有処(むしょうしょ)
4.非想非非想処(ひそうひひそうしょ)
です。
「非想非非想処」(ひそうひひそうしょ)は、天上界における最高の天で、「有頂天」(うちょうてん)とも呼ばれます。
これも、お釈迦様の悟りの段階を空間として表現したものだそうで、禅の「想」(そう)を捨てるプロセスだと言われます。
「想」は「表象」(ひょうそう)を表していて、記憶の中から現れるイメージの事だとされます。
「欲界」、「色界」、「無色界」の全部の天を数えると「二十八天」あるそうで、これらを「三界二十八天」とも呼びます。
禅の事はよく分かりませんが、お釈迦様は、「色」(しき)、「受」(じゅ)、「想」(そう)、「行」(ぎょう)、「識」(しき)の五つの心の作用を無くせば「無我」(むが)になれるとして、この五つを「五蘊」(ごうん)と呼んだそうです。
ペルシアのアフラ・マズターを阿修羅として、ヒンドゥー教の神々を「天」という形で取り入れた仏教は、それを統合する為に今度は、「毘盧舎那仏」(びるしゃなぶつ)という根源的な仏を考え出します。
東大寺の「大仏」のことです。
梵天(ぼんてん)を含めた全ての「天」は、「毘盧舎那仏」の変化した姿で、お釈迦様もその化身の一つだとされます。
そして、「毘盧舎那仏」は「宇宙」そのものだとして、弟子達は宇宙のスケールを仏教に取り込もうとしました。
バラモン教では、一つの宇宙が誕生し、消滅するまでの期間を、梵天の一日だとして、「劫」(こう)と呼んでいた為、それに対抗して、仏教の世界では、この「劫」という単位がしきりに用いられます。
もう、こうなると、仏教なのか、宇宙教なのかが分からなくなります。
仏教の一つの宗派である密教(みっきょう)では太陽を表す大日如来(だいにちにょらい)を最高神として神道の天照大神の本地と考えられ、浄土宗(じょうどしゅう)や浄土真宗(じょうどしんしゅう)で信仰される月を表す阿弥陀如来(あみだにょらい)は月読命の本地として、それぞれ別の神様として信仰されますが、どちらも「毘盧舎那仏」の化身という前提になるようです。
前置きが長くなりましたが、天神様の「天」はこうした仏教の「天」を意識して付けられた名前だということです。
『天満』(てんま)は「大般涅槃経」(だいはつねはんぎょう)や、「法華経」(ほけきょう)に出てくる『天魔』(てんま)の事で、菅原道真の神号の「天満大自在天」(そらみつだいじざいてん)の頭文字『天満』(そらみつ)から取ったものだと思われます。
「天満大自在天」とはどういう仏教の天なのかというと、「他化自在天」(たけじざいてん)と、「大自在天」(だいじざいてん)という二つの天の両方の意味があるのだと思います。
「他化自在天」(たけじざいてん)は、元はお釈迦様の悟りを妨げようとしたマーラという魔神で、心を入れ替えてお釈迦様の弟子になった仏で、「欲界」の頂上の六天に住む王様です。
「第六天魔王」(だいろくてんまおう)とも呼ばれます。
日本の素戔嗚尊を習合した野見宿禰(のみのすくね)の少彦名神(すくなひこなのかみ)に該当します。
一方、「大自在天」(だいじざいてん)の方は、「欲界」のもう一つ上の「色界」の王様になります。
シヴァの別名である大黒天(だいこくてん)と同一神とされます。
日本では、大物主命の直系の子孫の大国主命(おおくにぬしのみこと)が同一神だとされます。
単に「自在天」と言うと「他化自在天」と「大自在天」の両方を指すようですが、少彦名神(すくなひこなのかみ)は、大国主命の国造りを助けた神様で、大物主命の荒御魂(あらみたま)とも言われるので、両者は混同されやすくなっています。
菅原道真の先祖は、少彦名神なので、本来は「欲界」の「他化自在天」(たけじざいてん)に当たると思うのですが、祟りを恐れた朝廷が大国主命と同格である「色界」の「大自在天」(だいじざいてん)の位を贈ったのかもしれません。
どちらにせよ、本来のお釈迦様の思想から考えると、位や、身分なんかに拘っていると、いつまでも「輪廻」から「解脱」は出来ないという事になります。
天神様は、大国主命の親戚で、この世の最高位の神様というだけで良いのかもしれません。
梅が満開です。
結局、あの世が有るのか、無いのかというお釈迦様の答えは、無いというものでした。
大乗仏教の瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)では、衆生が生まれる前に送った一生を「前世」(ぜんせ)、衆生が現在を送っている一生を「現世」(げんせ)、衆生が生まれ変わって送る一生を「来世」(らいせ)と呼び、この三つを三世(さんぜ)と呼びます。
ここから、お釈迦様は、あの世が有ると説いていると誤解される方もおられます。
しかし、お釈迦様は時間を実在するものとは見ず、変化する「無常」(むじょう)の世界の中で、仮に三つの時間的区分を立てているだけで、「空」を説明する為のものでした。
あの世が有ると考えていたのはバラモン教の方で、お釈迦様はこれを否定したということです。
華厳経(けごんきょう)によると、外界の世界は存在しておらず、存在しているかのように心が見ているにすぎないとされます。
綺麗と思うのも、心が感じているだけで、唯(ただ)、識(しき)があるだけだというのが瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)の根本思想です。
普段、カラフルな色彩に囲まれていない風景を見慣れている目には、花が咲いた風景が新鮮で、綺麗と感じるのかもしれません。
あの世も、心が作り出した願望だということです。
天神様のお使いの牛です。
こちらが竹で出来ている本殿です。
竹は蘇我氏系の女帝であった推古天皇(すいこてんのう)のシンボルです。
シェイクスピアのハムレットの名セリフ「To be or not to be, that is the question」
(生か、死か、それが問題だ)は仏教には通用しません。
生も死も問題ではないからです。
この世に存在する全てのものは、「縁」(えん)として関係し合い、「現象」として現れる全てのものが一刻一刻変化し、生も死も含んだその全ての姿が「真実」であり、この世に「実体」と呼ばれるものはありません。
「猛き者も遂には滅びぬ。ひとえに風の前の塵(ちり)に同じ」
ただし、生き物を殺す事は「殺生」(せっしょう)といって最も重い罪だとされます。
これは、お釈迦様が真理の探求を始めた動機が、苦しんでいる人を助けたいという「慈悲」(じひ)の心で、「殺生」は、その真逆にある行為だからです。
身分の低い人々が屠殺業などの「殺生」に関わる職業につかされて差別されてきました。
差別も、お釈迦様の考えとは正反対の行為です。
人間は誰でも食事をしますが、食べるという行為は、「殺生」に関わっているのと同じ事です。
仏教徒は生きていく為に必要最小限の「殺生」にしようと、野菜中心の食事をします。
「精進料理」(しょうじんりょうり)とも呼ばれます。
現在の仏教は、大衆に分かりやすいようにあの世の存在を否定していません。
むしろ、浄土教などは、善行を勧める目的で地獄や、閻魔大王(えんまだいおう)の話を積極的にしたり、先祖を敬う為に、仏様にお供えしたりしています。
それらの行為が決して悪い事ではないからです。
「嘘も方便」(うそもほうべん)で有名な「方便」(ほうべん)という言葉があります。
大乗経典の菩薩(ぼさつ)の重要な徳目の一つで、衆生を真理に近づける為の巧みな方法を意味します。
相手が幸せになる嘘なら許されるということで、手段より結果を優先するというわけです。
大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の大乗(だいじょう)という言葉は、全ての衆生を乗せる大きな船だという意味です。
さあ、帰りましょう。
まだコメントはありません。