今日は奈良県高市郡明日香村にある岡寺(おかでら)にやって来ました。
西国三十三所第七番札所とされます。
正式名称は東光山真珠院、龍蓋寺(りゅうがいじ)と言うそうです。
「東」に光る「真珠」のお寺のようです。
仏教では「西」が「阿弥陀如来」(あみだにょらい)の浄土(じょうど)とされるのに対して、「東」は「薬師如来」(やくしにょらい)の浄土とされます。
「薬師如来」は病気を「治」(なおす)仏様でイエス・キリストを仏教が取り入れたものだと思います。
薬師如来の正式名称は「薬師瑠璃光如来」(やくしるりこうにょらい)とも呼ばれます。
古代インド人は「薬師如来」を太陽の昇る「東」に当てて、夜明け前の空の澄み切った青さを、清浄で透明な「瑠璃」(るり)に例えて「浄瑠璃世界」(じょうるりせかい)と表現したようです。
「瑠璃」(るり)はラピスラズリという宝石で、仏教において貴重とされる「七宝」(しちほう)の一つとされます。
「七宝」の内容は経典によって異なり、「無量寿経」(むりょうじゅきょう)では「金」、「銀」、「瑠璃」(るり)、「玻璃」(はり)=(水晶)、「硨磲」(しゃこ)=(シャコ貝)、「珊瑚」(さんご)、「瑪瑙」(めのう)で、「法華経」(ほけきょう)では「玻璃」(はり)、「珊瑚」(さんご)の代わりに「真珠」と「玫瑰」(まいかい)が入ります。
「玫瑰」の詳細は不明ですが、赤色系の宝玉だろうと言われています。
「七宝」は宝皇女(たからのひめみこ)の諱を持つ皇極天皇(こうぎょくてんのう)の象徴と思われます。
「瑠璃」(るり)の産地は主にアフガニスタンで、古代エジプト人は病気を治す「聖なる石」と信じて、粉末にして塗布したり服用したりしたとパピルスには記されています。
「瑠璃光」(るりこう)とは病気や怪我を癒す力を意味するようです。
天武天皇(てんむてんのう)が皇后(持統天皇)の病気が治るように祈って薬師如来を本尊とする本薬師寺(もとやくしじ)を建てたので、日本では薬師如来は天武天皇を表す仏様になります。
岡寺は、岡本宮(おかもとのみや)で観音菩薩の申し子として天武天皇の皇子の草壁皇子(くさかべのみこ)と共に育てられたとされる「義淵僧正」(ぎえんそうじょう)という人物が創建したとされます。
創建は663年(天智天皇2年)で、「三国仏法伝通縁起」(さんごくぶっぽうでんづうえんぎ)によると弟子に玄昉(げんぼう)、行基(ぎょうき)、隆尊(りゅうそん)、良弁(ろうべん)などがおり、文武天皇(もんむてんのう)により僧綱界(そうごうかい)の最高位である僧正(そうじょう)に任じられて、文武、元明、元正、聖武の四代の天皇に仕えています。
天武天皇の氏族であり、「義淵僧正」はそういった天皇に配慮して時代を生き抜いていったのだと思われます。
こちらのお寺の本尊は如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)だそうです。
如意輪観音菩薩は皇極天皇(こうぎょくてんのう)を象徴する観音様で、「塑像」(そぞう)とは粘土や石膏(せっこう)を材料とした「土の像」になります。
「土」(粘土)や「岩」(石膏)は土師氏(はじし)の蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだいしかわまろ)を表します。
仁王門(におうもん)に吊るされた巨大な「草鞋」(わらじ)です。
お寺の門に奉納される巨大な「草鞋」はそれを履く巨人=仁王様の護持を得られるという風習だと思われます。
仁王様は金剛力士(こんごうりきし)と呼ばれ、口を開けた阿形(あぎょう)と口を閉じた吽形(うんぎょう)の二体を一対とし、二王(におう)とも呼ばれます。
秦氏(弟)と物部氏(兄)の関係であり、旧約聖書で言うとモーセ(弟)とアロン(兄)の関係になります。
「仁」(に)は儒教の「仁」(じん)で「思いやり」=「愛」を意味しますが、果実の「種」(たね)を意味する言葉でもあり、忍界(にんかい)、忍土(にんど)など、「辛抱の徳を積む」この世を表す「忍」(しのぶ)=「仁」(しのぶ)という意味もあります。
仏の「種」である「仏性」(ぶっしょう)であり、「如意宝珠」(にょいほうじゅ)に当たります。
旧約聖書に書かれるアロンの杖に咲いたアーモンドの「花」と「種」は「不滅の愛」を意味するようです。
アーモンドはバラ科サクラ属の植物で、「桜」の仲間になりますが、果肉ではなく「仁」の部分が食用となります。
「草鞋」は、元々は「沓」(くつ)=「葛」(くず)の推古天皇(観音菩薩)を表し、地蔵菩薩の「履物」になります。
「草履」を通して地蔵菩薩(物部氏)と観音菩薩(秦氏)が一つになるようです。
この神社は岡と言われるように階段も少なく、もう登り切りました。
宗像三女神の出身地である福岡県、鏡皇女(かがみのおおきみ)を母に持つ藤原氏の出身地である岡山県、推古天皇(すいこてんのう)を表す忌部氏(いんべし)が静かになった静岡県など「岡」は秦氏を表す言葉です。
秦氏の鏡皇女の神社の「春日大社」(かすがたいしゃ)の前身を「枚岡神社」(ひらおかじんじゃ)と言うのも「枚」(ひら)の「岡」(おか)という意味があり、「枚」(ひら)は「平」(ひら)とも書かれますが、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)を表す比良明神(ひらみょうじん)を表しているようです。
物部氏の「山」(やま)の「尾」(お)となった秦氏の皇極天皇の「鹿」(か)を意味する「尾鹿」(おか)=「岡」(おか)という意味もあるようです。
推古天皇を主祭神とする甘樫坐神社(あまかしにいますじんじゃ)があり、元々は蘇我蝦夷(そがのえみし)と蘇我入鹿(そがのいるか)の邸宅があったとされる「甘樫丘」(あまかしのおか)という有名な「丘」(おか)がありますが、それを受け継ぐ狙いがあるのかもしれません。
「山」と「丘」の厳格な定義はありませんが、静岡の由来は賤機山(しずはたやま)という標高172cmの小いさな山で、この山から霊峰、富士山を遥拝(ようはい)する風習があったようです。
静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)の浅間(あさま)は水難に遭ったとしても観音様の御名(みな)を唱えれば、観音様が助けてくださり、「浅瀬」(あさせ)に辿り着くという法華経に書かれている功徳(くどく)が名前の由来と思われます。
静岡県の川は浅い川が多いようですが沖(おき)を意味する興津川(おきつがわ)は深い川のようです。
沖津島姫(おきつしまひめ)は古事記では田霧姫(たぎりひめ)=お稲荷さんの事ですが、日本書紀では市杵島姫(いちきしまひめ)の別名とされ、皇極天皇を象徴して、この名が付けられたのかもしれません。
賤機山(しずはたやま)の「賤」(しず)という字は「賤(いや)しい」とか「浅(あさ)ましい」という意味で、おそらく、推古天皇を表しているものと思われますが、「静」(しず)の方は深い海の静かさを表し、「倭文神」(しずのかみ)を表しているものと思われます。
日本書紀によると、「倭文神」(しずのかみ)は「経津主神」(ふつぬしのかみ)=(土師氏)や、「建御雷之男神」(たけみかづちのおのかみ)=(藤原氏)でも服従しなかった邪神の「天津甕星」(あまつみかぼし)を服従させた神様だとされます。
「天津甕星」(あまつみかぼし)の「甕」(みか)は「亀」(甕)を表し、「六芒星」(ろくぼうせい)=「籠」(かご)を表す「星」(海部氏)の神様になります。
「天香香背男」(あめのかがせお)という別名もあり、「香香」(かが)は「蛇」を意味し「男」(お)は「尾」(お)を意味し、「蛇」(八岐大蛇)の「尾」(お)となった「尾張氏」(おわりし)になり、天武天皇を表しているものと思われます。
つまり、土師氏でも藤原氏でも服従させれなかった天武天皇を「倭文神」(しずのかみ)が静かにさせたという事です。
「倭文神」(しずのかみ)は「天羽槌雄神」(あめのはづちのおのかみ)とも呼ばれ、ここでも男性を表す「雄」(お)という字が付きますが、機織りの神様だとされる事から、物部氏の「尾」(お)となった女性で、皇極天皇を表すものと思われます。
何故、「機織り」の神様が「星」の神様を服従させる事が出来るのか、謎に思われる方が多いようですが、この二人は七夕の「彦星」(ひこぼし)と「織姫」(おりひめ)の関係で、「天武天皇」が唯一、服従するのが「皇極天皇」だという意味のようです。
織姫の織る「布」は五色に光り輝くと言われ、「五色の短冊」(ごしきのたんざく)に願いを書いて「竹」に吊るします。
「金」や「銀」の針で縫われる「五色の短冊」は「木・火・土・金・水」(かぐや姫が求めた五宝)=「陰陽五行」を表し、「辰」(龍)=「応龍」(応神天皇)の「五」を表します。
こちらは「義淵僧正」(ぎえんそうじょう)が「悪龍」を閉じ込めたと言われる「池」です。
「龍」にわざわざ「悪」と付けているのは「善龍」と区別する為だと思われます。
「悪龍」とは、おそらく「九頭龍大神」(くずりゅうおおかみ)にされた推古天皇を表しているものと思われます。
「九頭」(くず)は「国栖」(くず)であり、「葛」(くず)になります。
「葛」(くず)は「薬」(くすり)の代名詞で、風邪に効く「葛根湯」(かっこんとう)は、「葛根」(くずね)、「麻黄」(まおう)、「桂枝」(けい)、「芍薬」(しゃくやく)、「生姜」(しょうが)、「大棗」(なつめ)、「甘草」(かんぞう)の七つの「草」(くさ)から作られます。
健康を祈って正月七日(人日の節句)に食べられる七草粥(ななくさがゆ)の「七」は「薬」(くすり)を意味し、皇極天皇を象徴する数字となります。
「池」は水面に姿を映す「鏡」に例えられます。
天皇家に伝わる三種の神器の一つの「八咫鏡」(やたのかがみ)は天岩戸に隠れた天照大神(推古天皇)の姿を映したものとされます。
「八咫鏡」に映された分身が天岩戸から出て来た新しい天照大神(皇極天皇)で「善龍」になるようです。
天岩戸に隠れるのは太陽が沈む「西」を表すので、太陽の力が弱まる「冬」も意味するようです。
「悪龍」が「義淵僧正」に閉じ込められる様子が石に彫られています。
この池の中にある「岩」が「悪龍」を閉じ込めた「蓋」(ふた)だそうで、この「岩」を動かすと雨が降るそうです。
義淵の建てたお寺はこの龍蓋寺以外に吉野の龍門寺、稲淵の龍福寺、柏森の龍福寺、そして天理の龍福寺の5か所で、「五蓋」を表していたと思われます。
「五蓋」とは貪欲(むさぼること)、瞋恚(怒ること)、惛眠(眠ること)、掉悔(のぼせること)、疑(疑うこと)の心を妨げる五つの障害を指します。
現在は、龍福寺は天理を指し、龍蓋寺、龍門寺(廃寺)を合わせて大和三龍寺とされます。
五が三に変わったのは五が星(彦星)である天武天皇を表すのに対して、三は宗像三女神の皇極天皇(織姫)を指すからだと思われます。
私は、この「蓋」とされる「岩」は蘇我倉山田石川麻呂を表していて、閉じ込められたのは「龍」ではなく「亀」(推古天皇)を意味していると思います。
藤原氏の祖である卜部氏(うらべし)を表す浦島太郎が「亀」の背中に乗って龍宮城(りゅうぐうじょう)に行きますが、幼い子供心に「乙姫様」(おとひめさま)しか出てこないのになんで龍宮城と「龍」が付くのだろうと思っていました。
「亀」は推古天皇(磐長姫)の事で「乙姫様」の使いで「龍」の子供だそうです。
「乙姫様」は「音羽の滝」(おとわのたき)の「音姫様」(おとひめさま)で、本来は伎楽(ぎがく)を日本に伝えた推古天皇の事ですが、琵琶を持ち音楽の神様である弁財天(べんざいてん)=皇極天皇(木花咲耶姫)を表す「八尋鰐」(やひろわに)=海を治める「龍」=八大龍王弁財天として表したのだと思われます。
朝鮮半島と九州の間に浮かぶ島で、「鰐」が並んだようにも見えるリアス式海岸のある「対馬」(つしま)では大型の船を「ワニ」と呼び、小型の船を「カモ」と呼び、速度の遅い船を「カメ」と呼んだようです。
「対馬」(つしま)は「対馬」(たいま)と読める事から「當麻寺」(たいまでら)の「當麻」(たいま)を意味しているものと思われます。
天皇家は「鰐」(龍)=和爾氏(わにし)=彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫であり、皇極天皇を神格化した「神功皇后」(じんぐうこうごう)を象徴します。
対馬の北側の鰐浦から出兵した三韓征伐(さんかんせいばつ)という三国の統一は、蘇我氏(高句麗)、物部氏(百済)、秦氏(新羅)の統一であり、宗像三女神の誕生を意味します。
宗像三女神は「神功皇后」(じんぐうこうごう)のお腹の中にいた「応神天皇」(おうじんてんのう)を意味するようです。
「応神天皇」は「神功皇后」のお腹の中にいた時から天皇になる事が決まっていたので「胎中天皇」(たいちゅうてんのう)とも呼ばれます。
この為、「応神天皇」は母親との結びつきが強く、父親の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の影が薄くなってしまっています。
「応神天皇」は王仁吉師(わにきし)を神格化した天皇で「三つ巴」が神紋になります。
実在した人物かは疑わしいとされますが、王仁(わに)は王仁(おうじん)とも読め、鰐大明神(わにだいみょうじん)とも言われます。
大阪の枚方(ひらかた)にお墓があり、「枚(ひら)のもう片方」という意味で、物部氏や藤原氏と対になる春日氏(和爾氏)を表すようです。
本堂です。
中央に見える仏像が「土の像」である「塑像」(そぞう)の如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)です。
この仏像の胎内には胎内仏という銅造で31.2㎝の小仏像が納められていて、本体の大きい如意輪観音像と同じ如意輪観音像だとされますが、その半跏思惟(はんかしゆい)の姿から、私は弥勒菩薩(みろくぼさつ)だと思います。
この半跏思惟の如意輪観音像は、聖徳太子の母親の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の御願によって建てられたとされる中宮寺でも見られます。
弥勒菩薩と如意輪観音菩薩を比較したホームページがネットにあったので、一緒に紹介させて頂きます。
では、何故、弥勒菩薩を如意輪観音菩薩と言う必要があったのかという疑問が生まれます。
弥勒菩薩とは救世主であり、ミトラと呼ばれるペルシアの太陽神で半跏思惟の姿で表されます。
皇極天皇の弟の第36代天皇の孝徳天皇(こうとくてんのう)の「36」(みろく)を指すものだと私は思います。
大化の改新後、皇極天皇から譲位という異例で孝徳天皇が即位し、皇極天皇の娘の間人皇子(はしひとのひめみこ)を皇后に立て、蘇我倉山田石川麻呂の長女である乳娘(ちのいらつめ)と、阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の娘の小足媛(おたらしひめ)を妃に貰い、小足媛が有間皇子(ありまのみこ)を儲けます。
有間皇子は結局、謀反の容疑で処刑されたという人物です。
皇極天皇を神格化した神功皇后は大帯比売(おおたらしひめ)と言い、小足媛はその分身の三穂津姫(玉依姫)になるのかもしれません。
私は、蘇我倉山田石川麻呂が葛城氏を演じたのが孝徳天皇で、蘇我氏を演じたのが仁徳天皇で、どちらも同一人物ではないかと思います。
仁徳天皇のお墓があれだけ巨大なのは、大化の改新の立役者だからだと思います。
孝徳天皇の眠るとされるお墓は聖徳太子のお墓のある太子町の大字山田にあり、考古学名は山田上ノ山古墳と呼ばれています。
蘇我倉山田石川麻呂の「山田」を象徴しているのかもしれません。
本来は弟ではない人物を弟とする形で(胎内に宿した)統合したのだと思われます。
阿倍倉梯麻呂の「梯」(はし)はそれを意味しているのかもしれません。
敏達天皇(びだつてんのう)の皇子の押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ)が推古天皇を表す糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)に産ませたのが第34代天皇の舒明天皇(じょめいてんのう)=田村皇子だとされ、糠手姫皇女は「宝王」や「田村王」と呼ばれ、舒明天皇は「田村」を引き継いだ形になります。
坂上田村麻呂など「田村」(たむら)は推古天皇を表す名前になります。
そして、糠手姫皇女が次に産んだのが「中津王」(なかつおう)と「多良王」(たらおう)で、「中津」(なかつ)は皇極天皇を意味し、「宝王」とも呼ばれます。
「多良」(たら)は観音菩薩の子供の多羅菩薩(たーらーぼさつ)の「多羅」(たら)で、蘇我倉山田石川麻呂を表す名前になります。
結局、舒明天皇は皇極天皇を皇后とするので「田村王」と「宝王」「多良王」は一つになるようですが、系図が後から書き換えられた可能性がるように感じます。
本堂の前に「龍玉願い珠」というお守りが木に結ばれています。
「勾玉」に代わる「宝」である「真珠」を模したものでしょうか?
持ち帰り用に一つ購入しました。
底が蓋になっていて中に願い事を書き込める紙が入っています。
その紙に願い事を書いて中に入れ蓋をすると願い事が叶うそうです。
中に入れると、自分自身として一体となれるという意味だと思います。
嫌いな人の名前なんかを書くと大変な事になりそうです。(-_-;)
仏教では如意宝珠(にょいほうじゅ)という願いを叶える玉があり、吉祥天(推古天皇)、地蔵菩薩(蘇我倉山田石川麻呂)、如意輪観音菩薩(皇極天皇)などの持ち物とされます。
モチノキ(黐の木)は樹皮から「鳥黐」(とりもち)が作られることが名前の由来になったとされます。
鳥が止まる木の枝に「鳥黐」を塗っておいて、脚がくっついて飛べなくなったところを捕まえたりしたそうです。
鳥と木を結び付ける木のようです。
鳥は「鳳凰」(ほうおう)を信仰した「蘇我氏」を象徴する動物です。
「蘇我氏」を「真珠」に閉じ込めて捕らえるという意味かもしれません。
お餅は「鳥黐」に似て粘り気があったので「黐」(もち)=「餅」(もち)と呼ばれるようになったそうです。
孝徳天皇は都を難波(なにわ)に移し難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)を建設します。
長柄(ながら)は蘇我倉山田石川麻呂を象徴する巌氏(いわうじ)を人柱(生贄)として埋めた伝説のある長柄橋という「橋」(はし)を意味し、豊崎(とよさき)は「豊」(とよ)=皇極天皇よりも「前」(さき)=「崎」(さき)の人物だという意味のようです。
本来、孝徳天皇は皇極天皇の弟なので「後」(あと)になるものと思われますが、蘇我倉山田石川麻呂なら日前宮(にちぜんぐう)など「前」(さき)でもおかしくありません。
大阪北区にある豊崎神社の場所が豊崎宮のあった場所で、豊崎宮が廃されて松林となり、皇極天皇を表す「八本松」と呼ばれていたようですが、990年~995年に藤原重治が孝徳天皇を祀ったのが始まりだそうです。
皇極天皇が斉明天皇(さいめいてんのう)として、改めて即位し、都は豊崎宮から奈良の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきぐう)に戻されます。
板蓋(いたぶき)は蘇我倉山田石川麻呂の岩蓋(いわぶき)ではなく、「松」の「板」を表す「蓋」(ふた)のようです。
「木」(松)は皇極天皇を表します。
瑠璃井(るりい)と呼ばれる井戸です。
「瑠璃色」(るりいろ)の名称が現れるのは大化3年(647)の孝徳天皇の七色十三階の冠位の制からで、「ふかきはなだ」と呼ばれました。
宝石の「瑠璃」(ラピスラズリ)のような「紫」を少し含んだ「青」を指します。
「紫」は蘇我倉山田石川麻呂を表す色で、「青」は物部氏の「青龍」(せいりゅう)を引き継いだ皇極天皇を表す色になります。
ただし、「紫」が藤原氏の「藤」を表す色となってからは蘇我倉山田石川麻呂の色は「黒」になります。
古代中国の「青」は「緑」がかったもので、隋や唐の時代の「青」は「緑」ではない「縹」(はなだ)=「露草色」(つゆくさいろ)であり、「ふかきはなだ」は「縹」(はなだ)をさらに深くした色という意味になります。
「露」(つゆ)は天神を表す言葉で蘇我倉山田石川麻呂の子孫を意味します。
「露と消える」と言われるように、早朝には大気が冷えて水蒸気が水滴となって草などの表面に現れますが、太陽が現れると途端に姿を消して見えなくなるので、物の儚さを表した言葉となります。
太陽である皇極天皇が現れると姿を隠す蘇我倉山田石川麻呂を表しているようです。
「緑」がかった「青」は「鶯色」(うぐいすいろ)の推古天皇を表します。
「緑」の「草」(くさ)は「翡翠」(ひすい)である「勾玉」(まがたま)を意味し、それを「瑠璃色」(るりいろ)=「露草色」(つゆくさいろ)に変える「露」(つゆ)は「真珠」になるのかもしれません。
奥之院に行ってみましょう。
稲荷社です。
伊勢神宮の外宮で祀られる豊受大神(とようけのおおかみ)であり、第11代天皇の垂仁天皇(すいにんてんのう)を意味します。
十一面観音菩薩とも称されます。
垂仁天皇の古墳は「菅原伏見東陵」(すがわらふしみひがしりょう)に治定(じじょう)されていますが、考古学名は「宝来山古墳」(ほうらいさんこふん)と呼ばれています。
「宝来山」(蓬莱山)は不老不死の仙人の住む山を意味します。
「宝来山古墳」の濠(ごう)の中に田道間守(たじまもり)の墓だとされる小島があります。
田道間守は不老不死の実の「橘」(たちばな)を常世の国から持ち帰った人物で、蘇我倉山田石川麻呂を表すようです。
つまり、お稲荷さんの胎内には蘇我倉山田石川麻呂が隠されているようです。
田道間守は但馬牛の「但馬を守る」という意味で、但馬には粟鹿神社(あわがじんじゃ)があります。
粟鹿神社は山幸彦(物部氏)の前に鹿が「粟」(あわ)を三束加えて現れたことが神社の名前の由来になります。
「粟」(あわ)は「蘇我氏」を表し、三束は天武天皇、蘇我倉山田石川麻呂、推古天皇の三人を表し、粟鹿明神(あわがみょうじん)は農耕神だとされるので、それを纏めた少彦名命(すくなひこなのみこと)=蘇我倉山田石川麻呂の事のようです。
少彦名命は炎帝神農(えんていしんのう)という別名もあり、中国最古の生薬の書は「神農本草経」(しんのうほんぞうきょう)と言われ、「薬」の神様でもあります。
日本では大国主命も「薬」の神様とされますが、本家本元は少彦名命のようです。
人々に「薬」の知識を与え、「温泉」を掘り当て、「温泉」が体に良い事を教えた神様です。
日本の神話は淡路島(あわじしま)から始まりますが、日本の歴史は「蘇我氏」である「淡」(あわ)=「粟」(あわ)が「路」(じ)=「死」(し)んで「路」(みち)=「道」になった事から始まるようです。
その「道」が何処に通じているかというと住吉四神の四国です。
四道将軍であり、石清水(いわしみず)の清水(四水)(しみず)です。
石窟です。
「石」(いし)は蘇我倉山田石川麻呂を表し、「窟」(くつ)は推古天皇を表します。
左に掛けられた札に「弥勒菩薩」(みろくぼさつ)と書かれています。
「岩」(石)に彫られた弥勒菩薩像のようです。
蘇我倉山田石川麻呂と同体となった孝徳天皇でしょうか?
かぐや姫が求婚相手に持ってくるように指示した五つの宝は、おそらく、「金」、「銀」以外の「宝石」を表していて、「龍の頸の玉」、「仏の御石の鉢」、「蓬莱の玉の枝」、「火鼠の皮衣」、「燕の子安貝」の五つになります。
どれも、「玉」や「貝」や「石」などの宝石なのですが、一つだけ毛色の違うものが含まれています。
阿倍御主人(あべのみうし)に指示した「火鼠の皮衣」(ひねずみのかわぎぬ)と呼ばれる「布」です。
「火鼠」(ひねずみ)は中国の伝説の生き物で、火山の炎の中にある不尽木(ふじんぼく)という燃えない木の中に棲んでいて、その毛から作った「布」は火に入れても燃えず、汚れだけ焼け落ちて真っ白になると言われます。
阿倍御主人はもちろん探してこれず、求婚は失敗に終わります。
この「火鼠の皮衣」は三国志で有名な魏(ぎ)とも関係があります。
曹操(そうそう)の息子の曹丕(そうひ)が世間で広まる嘘や迷信の類を徹底的に攻撃します。
その中に、この「火鼠の皮衣」も入っていて、曹丕は火に入れても燃えない布なんか絶対に存在しないと断言します。
しかし、道教の経典の「抱朴子」(ほうばくし)の「論仙」には、その後、曹丕に「火鼠の皮衣」が献上され、彼は自説を撤回したと言われます。
火鼠 寺島良安『和漢三才図会』
「火鼠の皮衣」(ひねずみのかわぎぬ)は「火で浣(洗う)布」=「火浣布」(かかんふ)と呼ばれ、周の穆王(ぼくおう)の時代にも周辺諸国から献上され、その存在は以前から広く知られていました。
その正体は鉱物性繊維の石綿(アスベスト)であると言われます。
高い耐火性で建物に使用されたアスベストですが、肺に入ると肺がんなどの健康被害を起こす為に使用が禁止されたあの物質です。
つまり、「火鼠の皮衣」の正体は「布」ではなく、「石」だったわけです。
そして、かぐや姫から出された難問のうち、阿倍氏だけは結婚が認められる可能性があったというわけです。
中国の魏(ぎ)という国は、日本の卑弥呼(ひみこ)に「金印」を授けた国で、魏の文帝の末裔とされる七姓漢人の一人の高向玄理(たかむこのくろまろ)と深い関わりがあります。
私は高向玄理とは天武天皇の事ではないかと思っています。
そして、七宝の一つとされる「瑠璃」(るり)は天武天皇を表しているものと思われます。
かぐや姫は皇極天皇の事であり、「阿倍氏」(あべし)は当初、天武天皇を表していたものと考えられます。
天武天皇の氏族(長屋王)が滅び、平安時代以降に登場する「安倍氏」(あべし)はおそらく、藤原氏から分かれた氏族だと私は思います。
藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)に阿倍御主人(あべのみうし)の孫の阿倍貞媛(あべのさだひめ)が嫁ぎ、藤原良継(ふじわらよしつぐ)に同じく阿倍御主人(あべのみうし)の曾孫か玄孫に当たる阿倍古美奈(あべのこみな)が嫁ぐなど、徐々に藤原氏に入れ替わって「阿倍氏」(あべし)が「安倍氏」(あべし)となり、現在に至っているものと推測出来ます。
「安倍晴明」は「五芒星」をシンボルとし、実際に実存したかは謎ですが、そのライバルとされる悪役の「蘆屋道満」(あしやどうまん)は「六芒星」や「九字切り」をシンボルとします。
「安倍晴明」は賀茂忠行や賀茂保憲に陰陽道を学んだとされ、母の信太明神(白狐)は吉備真備(きびのまきび)の生まれ変わりだとされます。
「蘆屋道満」は兵庫県加西市の一乗寺を中心に活躍したとされるインド出身の法道仙人(ほうどうせんにん)から陰陽道を学んだとされます。
安倍氏を通して「海人」(天)の中心は「六」や「九」から「五」に変えられるわけです。
結局、火に入れても燃えないものは、「石」(蘇我倉山田石川麻呂)の「石綿」だという事です。
「続日本紀」によると「義淵僧正」(ぎえんそうじょう)は俗姓は市往氏(いちきし)とされ、義淵の兄弟は彼の功績により「岡」の姓を貰い、「新撰姓氏禄」(しんせんしょうじろく)によると、共に百済聖明王(くだらせいめいおう)の後裔(こうえい)であったとされます。
ところが、「扶桑略記」(ふそうりゃくき)では観音菩薩への祈願で生まれ、俗姓は阿刀氏(あとし)とされ、「前」(さき)ではない「後」(あと)の「尾」(お)を意味し、石上氏と同祖とされるので物部氏の役を演じた蘇我倉山田石川麻呂の後裔になるようです。
皇極天皇の胎内に入った蘇我倉山田石川麻呂は同族なので、市往氏(いちきし)は皇極天皇を象徴する市杵島姫(いちきしまひめ)を表した名前なのかもしれません。
余談ですが弘法大師空海の母も阿刀氏(あとし)とされます。
こちらは岡寺の向かいにある治田神社(はるたじんじゃ)です。
雄略天皇六年にこの地方の開拓者の治田連彦人(はるたむらじひこひと)を祖神として祀ったもので、開化天皇(かいかてんのう)とその第三皇子の彦坐命(ひこいますのみこと)を勧請したものとされます。
彦坐命は彦坐王(ひこいますのみこ)とも言われ、神功皇后の息長氏(おきながし)の祖で、金峯山寺(きんぷせんじ)の蔵王権現(ざおうごんげん)=皇極天皇を意味します。
「蔵王」(ざおう)の「蔵」(くら)は中に「宝物」を詰め込むことが出来る「建物」(器)になります。
「穴穂」(あなほ)を表す「大己貴命」(安康天皇)=蘇我倉山田石川麻呂が、「大国主命」(物部氏)になるための試練で、素戔嗚尊から火の海となった草原に鏑矢(かぶらや)を取りに行かされるシーンがあります。
窮地に陥った「大己貴命」を助けたのが「鼠」(ねずみ)で、「内は富良富良(ほらほら)、外は須夫須夫(すぶすぶ)」と、入口は狭くても地面の下(地の蔵)は広くて安全だという事を教えます。
「宝良」(ほら)は皇極天皇を意味し、「須夫」(すぶ)は天武天皇を意味するようです。
この「鼠」はおそらく、地蔵菩薩の化身で、「火鼠」(ひねずみ)を表しているものと思われます。
地蔵菩薩は石上(いそのかみ)=石神(いそのかみ)で、物部氏の役を演じる蘇我倉山田石川麻呂になるようです。
閻魔大王(えんまだいおう)は物部守屋で八岐大蛇(やまたのおろち)を表しますが、地蔵菩薩と閻魔大王は同一だと言われるのも、物部氏系の天智天皇が蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)や姪娘(めいのいらつめ)を妃として同族になったからかもしれません。
閻魔大王を信仰する十王経は日本で発展した仏教のようで、その発展を推し進めたのが天台宗や聖徳太子信仰の産みの親である藤原北家のようです。
この神社の現在の御祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大物主命(おおものぬしのみこと)になっています。
秦氏、蘇我氏、物部氏を代表する神様です。
治田神社の「治」(はる)は皇極天皇の「春日」(かすが)の「春」(はる)を意味し、天下を手中に「治」(おさ)めるという意味があるようです。
神紋は「三つ巴」で、応神天皇は薬師如来の代わりになります。
神功皇后から生まれた応神天皇は、聖母マリアから生まれたイエス・キリストをモデルにした天皇であり、「応」(イエス)の神になります。
おそらく、古事記が編纂され始めた当初は天武天皇がそこに自分を当て嵌めようとしたのかもしれません。
神社の節分には春の到来を祈って邪気を祓う「蟇目の儀」(ひきめのぎ)と呼ばれる儀式で、東西南北の四方に「鏑矢」(かぶらや)が放たれたりします。
四方の「四」は清水(四水)である住吉四神を意味します。
そして、その中心にいるのが「五」を表す応神天皇です。
「鏑矢」は石清水八幡宮の御神矢になります。
戦が始まる時に一番最初に放たれる「一番矢」が「鏑矢」で「戦の神様」の神功皇后(じんぐうこうごう)を意味するようです。
「鏑」(かぶら)とは、木、または鹿の角を「蕪」(かぶら)の形状に削って穴を開けて中を空洞にしたもので、それを矢の先端に取り付けて射放つと穴が風を切って音が生じるものです。
宣戦布告などの合図に用いられ、世代が変わるという意味も含まれているものと思われます。
「世」(せ)は天武天皇を表す言葉で、観阿弥(かんあみ)=(推古天皇を象徴)、世阿弥(ぜあみ)=(天武天皇を象徴)の親子として「能」(のう)を大成します。
聖徳太子の子で、田村皇子(舒明天皇)と皇位を争ったとされる山背大兄王(やましろのおおえのおう)も、天武天皇を象徴した人物と思われ、「背」(せ)=「世」(せ)を表すようです。
「世」(せ)は流れが急な浅瀬(あさせ)を表す「瀬」(せ)でもあり、「立つ瀬がない」など、「少なさ」や「狭さ」を表します。
「天の川」で年に一度だけ「織姫」と「彦星」が逢える少ない機会を「逢瀬」(おうせ)と呼びます。
12月を「年の瀬」(としのせ)というのは年が終わるのもあと少しで、時間の流れが早かった例えのようです。
天武天皇は蘇我氏を代表する最後の人物で、その時代も終わるという意味のようです。
奈良県の斑鳩(いかるが)に聖徳太子の建てたとされる法隆寺(ほうりゅうじ)というお寺があります。
この東院の北方に法輪寺(ほうりんじ)という薬師如来を本尊とするお寺があり、その側にある「岡の原」という小山が山背大兄王のお墓だと伝わります。
聖徳太子は厩戸(うまやど)から生まれたイエス・キリストをモデルにした人物で、「和を以って貴しとす」の宗像三女神(応神天皇)を意味します。
「和」(わ)は「倭文神」(しずのかみ)の「倭」(わ)であり、「岡の原」の「原」(はら)は聖母マリア(皇極天皇)の「胎」(はら)を意味し、「瀬」(せ)の反対語の「淵」(ふち)を意味するのかもしれません。
天武天皇の「薬師如来」(イエス・キリスト)と、皇極天皇の「阿弥陀如来」(聖母マリア)は、共に浄土の仏様として、セットという形になるようです。
セットになった天武天皇は「鮑」の大海龍王(だいかいりゅうおう)という神様になり、但馬国(たじまのくに)の赤淵神社(あかぶちじんじゃ)で祀られます。
世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる (よみ人知らず)
奈良県の飛鳥川は氾濫しやすく「淵」と「瀬」が絶えず移り変わる事から「無常」(むじょう)を表す「飛鳥川の淵瀬」(あすかがわのふちせ)という言葉も生まれます。
安倍晴明が「五芒星」を「桔梗印」と呼んだ事から、「桔梗」(ききょう)は晴明の花とされます。
「桔梗」は「岡」に咲く「瑠璃色」の花です。
「瑠璃色」(るりいろ)は、キリスト教では「マドンナブルー」と呼ばれ聖母マリアの色とされます。
我が背子(せこ)に うら恋ひ居(お)れば 天の川 夜船(よふね)漕ぐなる 梶の音(と)聞こゆ
(柿本人麻呂)
「あの方に恋い焦がれていると、天の川から梶の音が聞こえてくるよ」というもうすぐ逢えるという期待の心情を歌ったものです。
平安時代には「梶の葉」に恋の願いを書き止めて川に流すと、それが「船」の「楫」(かじ)=「舵」(かじ)となり、天の川に届いて願いが叶えられると言われていました。
「船」は宗像水軍の海部氏(あまべし)を表し、「梶」はその統率者であった凡海氏(おおあまし)の大海人皇子(おおあまおうじ)=天武天皇を表すようです。
「梶の葉」は諏訪大社(すわたいしゃ)の神紋で、御祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)は天武天皇のもう一つの名前になります。
武蔵七党(むさししちとう)の丹党(たんとう)に属した「加治氏」(かじし)は「治(春)に加える」と書かれる事や、「梶の葉」の家紋を使用する事から、天武天皇の血を引く氏族と考えられます。
武蔵国は現在の東京都と埼玉県、及び神奈川県北東部に当たる国で、元々は土師氏と同祖の檜前氏(ひのくまし)の国だったようです。
大化の改新以前は、武蔵国は「无邪志」(むさし)、「胸刺」(むさし)、「知知夫」(ちちぶ)の三か国だったものを一つにしたと言われます。
皇極天皇を表す「天上春命」(うわはるのみこと)と天武天皇を表す「天下春命」(したはるのみこと)を統一した「无邪志」(むさし)国造の兄多毛比命(えたもひのみこと)は毛が多い蝦夷(えぞ)を連想しますが、旧約聖書のイサクの息子でヤコブの兄の毛深かったとされるエサウを意識した人物のようです。
「无邪志」(むさし)という字は「邪悪な志の無(无)い」人物という意味なので、「物部氏」=皇極天皇の先祖である敏達天皇(物部氏)=大国主命(出雲)を意味するものと思われます。
「胸刺」(むさし)は熊襲(くまそ)=川上梟師(かわかみたける)の胸を刺した日本武尊(やまとたける)を連想させ、モデルは健皇子(たけるのみこ)なので、蘇我倉山田石川麻呂と皇極天皇の両方の「孫」(まご)で「蘇我氏」を意味するようです。
「知知夫」(ちちぶ)は蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を嫁がせた孝徳天皇=「秦氏」(葛城氏)を指すようです。
儒教では、数ある「徳」(とく)の中でも、「孝」(こう)が最上位だと言われ、「子」が「老」(親)を背負う形が「孝」の字になります
しかし日本では、「老」(親)が「子」を思う気持ちのほうがはるかに深いと「仁」が最上位になります。
現在の「秩父」(ちちぶ)は「夫」(ぶ)が「父」(ぶ)になっていて、秩父神社では蘇我倉山田石川麻呂を意味する思兼命(おもいかねのみこと)が祀られています。
檜前氏は「日前・國懸神宮」(ひのくま・くにかかすじんぐう)の「鏡」の氏族であり、背の高い「紀」(木)を生み出す「高御産巣日神」(たかみむすびのかみ)になります。
「竹」(天武天皇)のように天高く伸びる高木の神様で、「武蔵」(むさし)には「武」(竹)の「蔵」(くら)という意味があるのかもしれません。
「蔵」はお腹(原)であり、皇極天皇を表し、天武天皇を含む海部氏(あまべし)を表すようです。
孝徳天皇のお腹の中に「子」が「親」を思う「孝」の天武天皇が納まる形になるようです。
當麻寺(たいまでら)の本尊の弥勒菩薩像の胎内には役小角(えんのおづぬ)が信仰した孔雀明王(くじゃくみょうおう)の像が納められていると言われます。
孔雀明王は毘沙門天の事で、天武天皇を意味し、役小角は藤原不比等に邪教を広めていると伊豆に一度、島流しに遭い、一年後に復帰してからは、孔雀明王の信仰は捨てて、蔵王権現(ざおうごんげん)の信仰を広めるべく、金峯山寺(きんぷせんじ)の建設に乗り出します。
當麻寺の二上山(ふたかみやま)は太陽の沈む「西」の山で、元は皇極天皇と蘇我倉山田石川麻呂を表していましたが、それが皇極天皇と天武天皇に変ったようです。
當麻寺の「當麻」(たいま)は「絶間」(たえま)を埋める「太間」(たいま)で、「橋」を表すようです。
秦氏は治水の神で夏王朝の始祖である「兎」(うさぎ)を表す「禹」(う)で、「秦」(しん)はユダヤ人を指す言葉でユダヤ人を表す「猶太」(ユダヤ)という漢字は「太」(たえ)を「猶」(治)すという意味になります。
ユダヤ人が住んでいてアレキサンダー大王の子孫が築いたバクトリア=大夏国(だいかこく)は「大月氏」の属国となり、クシャーナ朝が生まれ、「兎」(秦氏)や「蟹」(凡海氏)は「月」(月氏)の中に存在する形となります。
清和源氏の祖である清和天皇の母は藤原北家の藤原明子(ふじわらあきらけいこ)ですが、その母は源潔姫(みなもときよひめ)で、嵯峨天皇が当麻治田麻呂(たいまはるたまろ)の娘に生ませた子供で、治田神社の本当の名前の由来はここから来ているような気がします。
当麻氏と高向氏は実は同じ魏の文帝の末裔で、本当は天武天皇の祖先を表しているのではないかと思います。
天武天皇の父は高向王(たかむくのおおきみ)で、その子供の漢皇子(あやのみこ)が天武天皇の別名で、蘇我入鹿と皇極天皇の子供が天武天皇だという説まであります。
蘇我氏と天武天皇が近い関係であった事は事実だと思うので、第48代天皇の称徳天皇(しょうとくてんのう)までが天武天皇と持統天皇の子孫なので、蘇我氏の力が及んだのがこの時代までで、この時代の歴史を隠す為に聖徳太子という架空の人物が創りあげられた気がします。
遣隋使を送った多利思比孤(たりしひこ)という人物も聖徳太子ではなく、蘇我入鹿だった可能性が高そうに個人的には思います。
「太間」(たいま)は「対馬」(たいま)であり、マグダラのマリアがイエス・キリストの足に香油を塗ったとされる「大麻」(たいま)オイルであり、蘇我氏がシルクロードを通じてペルシアから持ち込んだハーブで、飛鳥時代の人々が天照大神のシンボルにしたのだと思います。
朝鮮半島も大麻の栽培が盛んで、その効能が朝が鮮やかに感じる事から朝鮮と呼ぶように太陽の神聖化に繋がる薬草というポジションで、聖徳太子の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)の朝を護るという意味も同様の意味があるのかもしれません。
「我が背子」は女性が夫や恋人など親しい男性を表す時に使われる言葉ですが、元々は背中に子供を乗せる親心の「亀」を意味していたようです。
奈良と京都を結ぶ宇治橋(うじばし)の宇治(うじ)の古名は兎道(うじ)です。
「兎」(秦氏)が「鰐」を騙して並ばせて、その「背中」を「道」にして海を渡り、怒った「鰐」に皮を剥がれて死にかけた所、大国主命(物部氏)が助けたというものです。
「鰐」とは宗像水軍を率いた天武天皇の事で、宇治の「治」(じ)が「治」(なおる)という字なのは「兎」(秦氏)が本来あるべき姿の「治」(春)に変った事を表しているのかもしれません。
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が朝鮮半島から「対馬」(つしま)を渡って渡来しますが、「対馬」は鰐浦という岩の先端が無数に海面に飛び出した「鰐」の「背中」のような地形を持つ島で、この島の住人は大きい舟を「ワニ」と呼び、小さい舟を「カモ」と呼ぶそうです。
「ワニ」には八尋鰐(やひろわに)を象徴する皇極天皇の意味もあり、「カモ」は上賀茂神社、下鴨神社の持統天皇の意味で「対馬」の四分の一程の大きさである「壱岐」(いき)の意味があるのだと思います。
今朝(けさ)見れば 露岡寺(つゆおかでら)の 庭の苔(こけ) さながら瑠璃(るり)の 光りなりけり
岡寺 御詠歌
この「岡寺」の場所は天智天皇と藤原鎌足が蘇我氏を滅ぼす計画を練ったとされる「多武峰」(とうのみね)の「山」に連なる「岡」です。
皇極天皇は天智天皇の計画を予め知らされていたのではないかと思います。
そんな皇極天皇の心の内に思いを馳せると何か感慨深いものがあります。
「蘇我氏」と「物部氏」の争乱を避けて丹後に身を寄せた「穴穂部間人皇女」(あなほべのはしひとのひめみこ)の心は、「天武天皇」と「天智天皇」の争乱を避けたかった「皇極天皇」の胸の内と重なるものがあるように感じます。
「三氏族」が融和する「宗像三女神」は、皇極天皇の「胸の内」を形にした「胸型」(むなかた)であり、祈りなのかもしれません。